生きるためには栄養をとらなければならないのは常識であるが、 どういう栄養が必要なのかというのはあまりに面倒な知識である。 栄養学という名前で学問になってしまうほどだ。 何が必要だとかいうことをいちいち覚えているのは面倒であり、 また本当かどうかもわからない。 そこで、ここでは生きるのに必要十分な栄養に関する 知識を健康や料理法との関連で述べる。
栄養には3種類あってうんぬん、などというのを小学校あたりで聞いたかもしれない。 しかし、実はあんなものはまるで役に立たない。 むしろ、知った気になるという害の方が大きい。 炭水化物、たんぱく質、ビタミン、などという分類では大雑把すぎるのだ。 生命維持に必要な物質というのはメチャクチャな数にのぼる。 炭水化物はまあいいとしても、タンパク質にも種類がある。 ビタミンにも膨大な種類があり、さらに金属(いわゆるミネラル)も 相当な種類が必要なのである。 そして、どの食い物に何が多いなどということを記憶するのもほとんど不可能な上に、 調べた結果も相当不確かである。 そもそも、「ほうれんそうはこう」などと決めることができるはずがない。 育て方によって大きく違うに決まっているからである。 そういうこともあって、栄養学など一般人に把握できるものではない。 とすれば、一番早いのは経験に学ぶことである。 つまり、今まで人類が食って生きてきたものを食っていれば そう間違いではないだろう、という仮説によって食い物を決めればいいのだ。
そうは言っても、基本的なことは知っておいた方がいいだろう。 そこで、ここでは必要なものをある程度列挙する。 まずは炭水化物であるが、これは早い話糖かでんぷんだ。 通常これは穀物と豆でとる。次に脂質。 これには種類があり、体に必要なものと、そうでもないものがある。 油は体の維持や成長に必要なのだが、融点の低い油(不飽和脂肪酸) はたいがい合成できない。常温で液体の油であり、魚や植物の油が主である。 だからこれは食わねばならない。しかし、室温で固体の油、 つまり陸上動物の油はほとんどいらないといって良い。 完全にいらないという保証はないにしても、 現在みな食っているほどの量がいらないのは確かだ。 ちなみに、陸上動物の脂は体温で固体であり、当然血中に入っても個体である。 血管がつまるのは必然であろう。 次にたんぱく質であるが、たんぱく質の種類でなく、 たんぱく質の部品の種類が問題である。 たんぱく質というのはアミノ酸というものがつながったものだが、 食べても消化の過程でアミノ酸に分解されるため、 タンパクそのものの種類は問題ではない。 しかしアミノ酸の中には人間が合成できないものも多く(必須アミノ酸)、 多種のアミノ酸をとる必要がある。 そしてタンパク質の種類によってアミノ酸の組成が違うため、 一種類のものばかり食べているとアミノ酸が欠乏しかねない。 だいたいにおいて、アミノ酸は穀類と豆で補給できる。 これらは互いに補うので、両方をある程度の比率で食べる必要がある。 豆のかわりに肉でも良いが、肉には油が必然的に伴うため効率が悪い。 魚の場合は油が不飽和脂肪酸であるため害が少ないとは言える。 次にビタミン、ミネラル類であるが、 これは本当に種類が多い。必要なものを全部含んだ食い物はないので、 多種類食う以外に道はない。穀類、豆以外に野菜を食うのはそのためである。 そして、繊維も必要だ。便通を良くし、必要な菌の繁殖を助け、 消化器の調子をととのえる。これを甘く見てはいけない。 繊維が不足するとあっというまに不健康になるのである。 これはある種の麦や、豆、野菜に多い。肉には0である。 というわけで、早い話いろいろ食えということである。 そして、そのいろいろの中でも肉ははっきり言って全くいらない。
こういう知識に立って、昔からの食生活を見ると、 見事にそうなっている。 穀物、豆、野菜。これが3種の神器であると言えよう。 それだけでは足りない微量の栄養を肉や魚からとるのだが、 その量は本当に微量である。牛乳や発酵食品でもとれるので、 実は肉や魚は食わなくてもいい。 近頃は肉ばかり食う習慣があるのだが、 それは人類の歴史と比べれば非常に新しいことなのだ。 そして新しいだけにそれがもたらす影響は未知であり、 将来我々の健康がどうなるかはさっぱりわからないのである。
日本人の死因の3割はガンであるが、 これはかなりが栄養のかたよりに原因があると見られている。 また、脳卒中なども栄養のかたよりに原因がある。 他の死因もたいがい栄養に原因があることが多い。 まったく関係ないのは事故や自殺くらいだと言っても過言ではないほどだ。 それはなぜか。
生物の体は様々な物質によって維持されている。 その物質の有無だけではなく、量のバランスや密度、合成するタイミングなどが、 メチャクチャ複雑にからまって動いているのだ。 そこで何か必要な物質が欠けることはどういう結果をもたらすか全く想像できない。 逆に特定の物質が多すぎることがどういう結果をもたらすかもわからない。 だいたいこうだろうという推論すら怪しいほどなのである。 その上、人間は進化の過程で合成機能をだいぶ捨てている種だ。 食えば得られるものを合成する機能をもっていてもジャマであるから、 進化としておかしいわけではないが、それが今になって裏目に出ている。 合成できないものといえば、 ビタミンCやある種のアミノ酸、ある種の不飽和脂肪酸とあげるとキリがないほど多い。 これは、昔は普通に何も考えないでそのへんのものを食べていれば 合成するまでもなく足りていたということを意味する。 つまり、今栄養が足りないと言っているのは、 今の食生活が昔よりも質的に悪いということの証明に他ならない。 確かに昔は食い物関係の死亡率も高かったが、それは量に問題があったからで、 質に問題があったことは一部の民族を除いてほとんどない。 質に問題があるのは現代の先進国の人間の方である。
さて、生物の代謝という面から見ると、 絶対的に必要なものが機能から明らかになってくる。 まず、燃やす燃料たる炭水化物が必要である。 次にタンパクの材料としてのアミノ酸。 次に、イオン濃度を調節するための各種金属や無機イオン。 カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、塩素などが主だ。 タンパクの種類によっては金属を部品にするものもあり、 その意味でも金属は必須である。 これには鉄、亜鉛などがある。莫大な種類があり、 これを食えば安全などということはまったくわからない。 だから栄養剤も完全に信用はできないのだ。 さらに、酸素の攻撃に耐えるための抗酸化剤も必要である。 生物の大半は酸素にたえずさらされているのだが、 実は酸素というのはとんでもない猛毒である。 燃料を燃やすためにやむを得ず使っているが、こいつが細胞の他の部分にもれると たちどころにDNAやタンパクを粉砕しはじめる。 これを身代りになって止めるのが抗酸化剤である。 ビタミンC、Eなどもこれにあたる。 これが足りないとあっというまに細胞が破壊されるので、 老化が早くくる。 ちなみに、抗酸化機能をもつタンパク としてしられるSOD(SuperOxideDismutase) を入れた食品が売られているが、消化されるのでおそらく意味はない。 基本的にタンパク質(酵素もタンパク質の一種)は消化されるので、 そのものが体にいいということはないと思って良い。 タンパク質はアミノ酸の補給のために食うのである。
さて、自分について考えてみよう。 当然ながら生きている。人によっては相当ヤバい食生活をしている人もいるだろうが、 生きていることに変わりはない。 しかも、たいがいの人は自覚症状があるほど不健康ではない。 私も自分で体験済みだが、米、 それも白米だけを食っていても相当な期間何もおこらないのである。 油と塩をとりすぎるヤバい食生活でも数年で死ぬほどのことではない。 ということは、実は栄養など大した問題ではないのではなかろうか。 特に若い連中はそう思いがちである。
体の中が異様に複雑だということは述べた。 そしてその複雑さは体に相当な余裕をもたらしている。 何かが足りなくても他で補えるようにという高度な柔軟性があるのである。 しかし、それも何年と続くうちに限界がくる。 それは日本人の死因を見れば明らかであろう。 そもそも、脳卒中、肝硬変、動脈硬化など普通には起こり得ない病気である。 脂肪の過剰摂取、塩のとりすぎ、アミノ酸の欠乏、酸化抵抗力の低下、 その他もろもろがつもりつもっていることは明白と言って良い。 ガンの原因の主なものは細胞の遺伝子の変異と考えられているが、 その変異の原因は酸素による破壊が主である。 そして、酸素に破壊されるということは、身代りが欠乏していたり、 修復する機能が弱っていたりすることを意味する。 抗酸化剤といえばまずはビタミンだが、こいつが欠乏すればそれだけ酸素に弱くなる。 アミノ酸が足りなかったり、 金属が足りなければそれ関係のタンパク質も作りにくくなるだろう。 若いうちは何もおこらなくても、年とともにとんでもないことになるのである。 人間の機能が高度なのをいいことに甘えていると、あとで地獄を見ることになるのだ。 特に近頃は感染症で死ぬ率も低く、死ぬならそういう臓器不全やら血管関係である。 ある日突然死ぬならいいが、 そういう欠陥をかかえてじわじわと苦しみながら 死ぬのはあまりよろこばしくはなかろう。 糖尿病などその中でも1、2を争うしんどい病気であり、 その原因は明らかに栄養である。砂糖なんてものはただのカロリーであり、 穀物と豆で補えるものだ。砂糖を食って穀物や豆を食わないと、 その分カロリー以外の栄養が不足する。火を見るよりも明かである。
遺伝子がおかしいと、病気になる。 それは確かだ。しかし、遺伝子がおかしくなくても病気にはなる。 だいたい病気になる原因において遺伝子は30%以下の寄与しかないといわれている。 栄養やらの環境要因の方がはるかに大きい。 確かに遺伝子がダメならそれに関してはどうしようもないのだが、 それにしたって環境次第では軽くすんだりもするのである。 例えば、酸素に抵抗する遺伝子がおかしいとする。 その時にまともな食生活をしていれば、 ビタミンやらで補われてその害が少なくなる可能性もあるが、 食生活もおかしければもう救いようがない。 人間には高度な柔軟性があるのだが、 遺伝子に欠陥があるというのはその柔軟性が本来よりも低いことを意味する。 そこがまともな人よりも余裕がないのである。 そこにきて食い物までおかしかったらどうしようもない。 自分にどんな遺伝子欠陥があるかなどわからないので、 まともなものを食うに越したことはない。 なにしろ遺伝子というものは莫大な数があり、 確率的には誰しもいくつかの遺伝子はヤバいことになっているものなのだ。 それが致命的だったりどうでもよかったりという差はあるにせよ、 程度の差である。 遺伝子の中にはずいぶん後から効果が出るものもあるので、 あまりそのへんを軽視しない方が未来の自分のためだと言えよう。 病気の苦しみは、それこそ死ぬほど苦しいのである。
いろいろ食うべし。それに尽きる。 ただし、ある程度傾向はある。 前に述べた通り、脂肪はそんなにいらない。ましてや飽和脂肪酸はいらないに等しい。 肉は食わなくてもいいということである。 そして、豆を食うべきだ。ミネラル、ビタミン、アミノ酸、繊維の面で優れている。 しかも脂肪は少ない。穀物はメインになるのだが、 これにもアミノ酸が含まれている。玄米や大麦などの精製していないものを食えば、 ビタミンもアミノ酸も繊維もとれる。 そして野菜はとにかく多種類を食うこと。 緑黄色野菜とかいって栄養があるといわれているが、 それは今わかっている範囲の話であり、 そうでないものが必要でないと言えるはずがない。 そんなものは信用せず、いろいろ食うのが安全である。 基本的に何千年も食ってきたのには理由があるのであり、 そういう昔から食っているものは信用していい。 学問が進めば経験に勝る根拠が得られるかもしれないが、 今のところまだまだ歴史には勝てないのだ。
栄養は何でダメになるか。それを知っておけば、料理法はおのずと決まる。 まず、栄養の敵は、光、水、熱、酸素の4つである。 光に関しては保存法に気をつかおうという話で料理法にはかかわらない。 次の水だが、これはミネラルやらビタミンはたいがい水にとけるからである。 煮る時も煮汁を全部飲むならいいが、そうでなければ相当ロスが出る。 だから、水の量は必要最低限にするといい。 煮るより蒸す方がいいということである。 ちなみに、キャベツをきざんで数分もゆでるとビタミンCの70%はさようならする。 下ゆでの害はここにある。本来中華料理では油通しをするが、 それが面倒だといって湯通しをすると大変なことになるわけだ。 次の熱。これはとにかくタンパク質とビタミンをダメにする。 ミネラルは単なる金属なので影響しないが、 それにしたってタンパクとビタミンがダメになるのは深刻だ。 だから、生で食えるものは生で食えということである。 文明以前には加熱などしなかったのだから、これは当然であると言ってよい。 熱をかけるとタンパクがおかしくなって吸収されにくくなる。 ビタミンはとにかく壊れる。加熱は最小限にすべきだということだ。 加熱の役割は殺菌、消毒、そして軟化であり、 それが十分に満たされるギリギリの加熱で食うのが一番いいのである。。 そして酸素。これは特に油に効く。脂肪酸という奴はとにかく酸素に弱い。 あっというまに酸化されて過酸化油になる。こいつは猛毒だ。 バターを冷蔵庫に長いこといれておくと表面が黄色になるが、 あれが過酸化脂質である。こいつはグルグルと反応をくり返しながら 体の中でとんでもない量の分子を破壊する。 そして、酸素の害と熱の害はいっしょになって効果を高める。 熱いと酸素も活発になり、より破壊されるようになるのだ。 タンパクだろうとビタミンだろうと油だろうと熱い状態では どんどん酸化されてダメになってゆく。 加熱調理には酸化されにくい油を使おうというのはそういうことだ。 常温でドロドロした奴やかたまっている奴は酸化されにくい。 オリーブオイル、キャノーラ油、ラード系の動物性脂肪などがこれにあたる。 ちなみに、外食して揚げ物を食うと、 メチャクチャな量の過酸化脂質を食っていることになる。 ただでも酸化しやすい植物油を長時間加熱しっぱなしなのだから、 それも当然だ。
栄養があるものはうまくないというイメージがあるようだ。 ところが、もしそうだったら人類はとっくに滅亡している。 うまいというのは早い話快楽が大きいことで、 栄養のあるものを食って快楽を得るから人間は生きてきたのである。 快楽がなければ面倒くさいとか言って餓死しかねないし、 快楽が大きいものほど栄養があるからこそ、 がんばっておいしいものを食おうとして生きてきたわけだ。
味というのは、舌がある種の物質を関知して脳に送るシグナルである。 そして、体に必要なものなら「うまい」シグナルを、 いらんものなら「マズイ」シグナルをおくる。 もちろん結構これはいいかげんで結構外れるのだが、 アミノ酸やら塩やら糖やらはそのまんまである。 甘いのは基本的に快楽だが、 それは甘い物質が体に必要だからである。 例えば甘いものはたいがいエネルギーになる。 塩も少量だと快楽である。つまり塩もいるということだ。 塩に含まれているナトリウムは必須なのだが、実はカリウムというのも必須である。 それにもかかわらずカリウムに味を感じないのは、 昔はカリウムなんてのは食い物にはあたりまえのように入っていて 味を感じる必要がなかったからではなかろうか。 ナトリウムは食塩でとるしかなく、結構昔は手に入りにくかったのであろう。 今ではそれが逆になっている。ナトリウムが過剰で、カリウムが欠乏しているわけだ。 また、アミノ酸が多いとうま味が強いわけだが、 これはもちろんアミノ酸も必要だということを表している。 そう考えると、基本的に栄養があるほど味があるのである。 もちろん栄養がないほど味がない。 前の節でどうやって栄養がダメになるかを論じたが、 これはどうやったら味がなくなるかということとほぼ共通する。 水に栄養が逃げれば味も薄くなるし、熱でタンパクがおかしくなれば アミノ酸が吸収できにくくなって味がうすくなる。 そんな簡単なことなのだ。
しかし、人間はひねくれた生物であり、生きている間にそれ以外の「うまい」 を学んでいく。苦味やら、よくわからない化学な味を うまいと思うように教育されて育つのである。 そして、それは生命維持にとっては明らかな不利である。 そんなものをうまいと思っては生きていくのには不都合なのだ。 それでもそうなっているのは食い物があまっているからなのだが、 その割には栄養がおかしくて困っているのである。 そして、下手に知恵がついたために、どれが舌を刺激する物質かを知って、 それだけを独立して食わせる技を覚えてしまった。 そのために、味が栄養から一人歩きするというとんでもない状態になっている。 こうなると人間は生物としては欠陥品といわざるを得まい。
残念なことに、 染みついた味覚はいまさらそうそう変わらない。 カップラーメンがうまいとなってしまったら、 もう繊細なダシなどうまいと思うわけもないのである。 人間の刺激というのは慣れるものであり、 強烈なものをあびせつづければ、弱い刺激はわからなくなる。 味の素のシャワーを浴びるようにして育った人間には、 もう正常な味覚など残ってはいないといってよい。 そういう人間はいかにまともなものを食ってもうまいと感じないので、 まともなものを食うことに価値を見いだせない。 だから、とんでもないものを食って生き、 あとでとんでもないことになる確率が高いのである。 それを覚悟しているなら良い。だが、 それがいやなら少しづつ特殊な人間をやめて、 本来の動物に近づいてみてはどうだろうか。
それには舌を再教育することと、本能を信じることである。 薄い味に慣れ、おかしくなった味覚も戻しつつ、 本能でおいしいと感じるその感覚をとりもどす。 そうすれば、うまいものと栄養のあるものはだいぶ一致してくる。 白米が玄米よりうまいと感じるのも極めて不自然なことで、 それも是正されるだろう。麦、ひえ、あわ、きび、豆などは栄養の宝庫であり、 昔から長い間食ってきたものだ。 こういうものをうまいと感じられるようになれば、それは生まれた後のイメージや、 味覚の衰退をある程度はねのけられたと言って良い。 しかも、実はそういうことをするのは手間も金も節約することにつながるのである。 前にのべたように、たいがいの場合手を加えるほど栄養はダメになる。 栄養がダメになれば味も落ちる。ということは、 できる限り手を加えないで食えばおいしくて健康になるわけだ。 それに、玄米、きび、麦、豆などは栄養密度から考えれば決して高くない。 肉の方が栄養密度を考えればはるかに高い。 砂糖などカロリーしかないのだからメチャクチャな高さである。 食い物に関するいらないイメージを捨ててこそ、 人間は動物に戻れるのである。
なお、最後に水を差すようで悪いのだが、 これはあくまで基本方針である。加熱して栄養が強化されるものもあれば、 手を加えてうまくなることもある。 もちろんうまいと栄養があるは一致すると決まったわけではない。 しることカレーの両方が栄養があっても混ぜれば味はダメだろう。 そういうことはあるので、細かい各論は必要になる。 しかし、この基本方針に従う限り、 イヤな病気をかかえてイヤな死に方をする確率が相当に減るのは確かであるし、 ちゃんと本来うまいものをうまいと思って生きていくことができるだろう。