日記っぽい0103

2001年3月28日

カゼ辛くて出られん。余ったメシでチャーハン作れば 失敗して食えんようになるし、ロクなことがない。 しかし出る。出るのだ。福島までこの状態で行くのが どれほどの苦行か。

セキ止め効かねえ。驚くほど効かねえ。 市販の薬はダメだ。

今日実家に帰ります。連絡は掲示板、 身内は電話でおねがいします。 電話番号はあそこにhirayama-phoneというファイル名で 置いておくので。おそらく4/5ごろ戻ってくるでしょう。

カゼ思索

  薬がもうちょい効くまで頭ゲーム。今日は 人工知能。メチャクチャ長いうえにけっこう メチャクチャです。注意。

  さて、人工知能を作る上で 第一にやることは人間の心はどのような パラメータのセットで表せるかを考えることだ。 そして同時にそのパラメータをどう演算して入力 に対して出力を行うのかの式を決める。 この式を決めるにあたっては根源的な価値というものを 定めてそれを指標とする。つまり人間で言う快と不快だ。 そして、次に入力と出力の形式を決める。 見たもの、聞いたものをどういう形で格納し、 それをどうパラメータに反映させるかという手続きだ。 これだけやれば、パラメータの初期値のみ与え、 あとはデータ(経験)をドバドバ入力しまくれば いずれ知性ができあがることになる。 人間が機械であるならば、人間と同じハードウェアを作って 人間社会に放りこめば人間になるはずなのである。 よって、この実験は人間が機械であることを証明する 一つの方法であるとも言えよう。 ただ、出来あがる知性が人間と同じ形式であるかどうかは やってみなければわからない。初期値、パラメータの系、 入力処理、出力デバイス、その他もろもろが一つでも 人間と違っていればその違いはどんどん増幅されて 人とは違うものが出来あがるだろう。あるいは 人とは違う経路を経ても表面上人と同じに見えるものが できるかもしれないが、 そのへんはわからない。 そして、子供をどのように教育しても完全に望みの 人格にはならないように、この方法で人工知能を作る限り どのような人格が出来あがるかは予想ができない。 つまり、 マルチのあの人格を作るのはこの方法ではほとんど 不可能だということだ。 かといってパラメータと データ(経験)を自力で設定する方法もまた、 必要な入力の莫大さから考えればほとんど不可能である。 よってマルチを作るためには、ある程度人格 が形成されるまで学習させ、その上でパラメータを ちょこちょこいじることになる。

  さて、現時点では身体がないため、生存=快という その根源的な価値を与えることができない。 これなくしては学習型人工知能は不可能である。 それでも人工知能ごっこをするにはどうすればいいか。 たとえば入力も出力もテキスト という状態でどうやったら根源価値を与えられるだろう。 まず一つは知識欲のシミュレートだ。 蓄積したデータが多くなる方向を快として減る方を 不快とする。しかし、それではただひたすら蓄積 してしまうだけで意味がない。そこで、蓄積したデータ の中での関連性が高まる方向を快として、低くなる方向を 不快としてはどうか。テキストを単語分解して溜めこみ、 その使用頻度や結合度を分析してある言葉とある言葉の 関連性を推定する。そうやって推定された関連性が たくさんあるほど快とするのだ。容量に限界を設けておけば 関連性の低いデータを捨てて関連性のより高いデータを 蓄積しようとするだろう。そして、また同時に解析能力 に限界を設けておき、 演算が入力に対して間にあわないようにしむけておく。 そうすると演算が不完全になり結果が予測しにくくなる。 また、時間とともに関連性の低いデータや 使用頻度の低いデータをランダムに 失っていくようにしむける。また、演算の対象になった データはこの優先度を下げる。つまり、よく考えている ことは忘れなくなるわけだ。入力を止めている間には えんえんすでに溜まっているデータで 演算を行うことになる。言うならば家にひきこもって 思索に沈むような状態なわけだ。

  さて、問題は出力である。 出力するには動機が必要だ。先の例で言えば、出力 することによって関連性が高まり快がなくてはならない。 人間の場合しゃべって通信することが生存に必要なのだが、 この人工知能ではしゃべることに意味がない。 そこで、人工知能を複数作って、その間で関連性データを 交換するようにすれば良い。すでに演算した結果を 交換することで、普通に入力を得るよりも効率よく 関連性を高めることができるとすれば、 これが出力する動機になる。ただし、この出力能力 には十分な制限を与えないと、普通の入力を やめて話しこんでしまうことになるため、出力 能力は十分に低くせねばならない。 もっとも二人が完全に話すことを全部話してしまえば なんぼ話しても新しいデータが手に入らない状態に なるのでまた普通に入力を始めるようにもなるのだが、 それではみんな同じになってしまっておもしろくない。 まあこのへんは人間だって四六時中一緒にいるわけで ないことを考えれば話せる時間を限定してやることで 解決できるだろう。 というわけで、しゃべるプロトコル、つまり言語を 設定してやる必要がある。だが、これは日本語であることが 望ましい。でないと作った人がおもしろくないからだ。 蓄積された関連性データの海から相手が持っていなさそうな ものを選択して日本語のフォーマットで渡す アルゴリズムが必要である。 もしうまく設定できたならば話し相手は別に 人間でもかまわない。 さすがにまともな会話は望めないが、 何を言うか予測がつかないというのは十分に おもちゃとしてはスリリングであろう。

  さて、おわかりかと思うがここで一つ問題がある。 そうすると 普通の入力と会話入力に実は 何の違いもなくなってしまうことだ。 どちらも日本語であるならば同じなわけで、 であれば量が多い方をとるのは当たりまえである。 たとえばWEBを勝手に見て回る機能をつけた場合、 そっちの方がはるかに情報量が多いわけで まるでしゃべらなくなるのだ。 敢えて会話を選ぶようにする動機がいる。 で考えついたのだが、 相手がくれる情報が自分の欲しい情報で あれば効率がいいわけで、であれば自分の欲しい情報を 要求するようにすればいいのだ。持っているデータの中で 他の言葉から独立してしまっている言葉は言うならば 「よく知らないこと」であり、知りたいことである。 そこで、その言葉についての情報を要求させるのである。 しかし、これだけではホイホイ互いに質問と答えを 繰り返すだけで、無条件に教えあってしまうように思える。 しかし、教えている間は学習ができないわけで、 つまり損だ。このあたりをうまく処理すれば、 教えることで相手から有益な情報が引き出せる場合だけ 教え、そうでないときはさようならするように 設定することができる。つまり、役に立たない友達は いらないのである。

  さて、どうやら分業の概念が生まれてきた。 これで社会が形成される必然性ができたことになる。 二人が別のことを学習すれば会話によって それを共有し、より大きな知識を得られることになる。 これを実現するためには学習のベクトルを変化させる 手段が必要だ。「これについて勉強したい」という欲求を かなえてやるのである。さて、彼等の主力な学習手段は WEBで、 つまりリンクをたどってHTMLを読みあさって学習する。 これをランダムでなく、特に学習したいことに関する リンクをたどりやすくするアルゴリズムを加えればいい。 つまり、アンカーの文字やその周辺の言葉に、 知りたいことが含まれているところを読みに行く ようにするのである。そうすれば統計的には 知りたいことについて勉強できる確率が高まり、 結果複数の人工知能が協力すればより 大きな知識を共有できるようになる。 検索サイトに文字列を入力することができるように してやるとなお良いが、検索サイト以外の サイトのフォームにメチャクチャな文字列を勝手に いれられると困るので、 この機能はおもしろい一方で危険かもしれない。 掲示板に勝手に書きこむ人工知能なんて大問題だろう。

  さて、この段階では言葉は単なる関連性データで 我々が思うような意味をもっていない。 しかし、彼等は肉体を持たないため、我々が言葉と 現実の行為や物体を結びつけるようなことが まるでできない。これではいまひとつ寒いものがある と言わざるを得ないだろう。しかし、かといって 画像イメージとその周辺の話題を結びつけて 言葉のイメージを溜めこむようなアルゴリズムは 人知を超えてむつかしいに違いなくどうしようもない。 さすがに意味を理解させるのは無理なのか。

  さて、ここまでのところ人格や個性の話はまるでなかった。 分業が個性の根源なのだが、この段階での個性は 所詮何を知りたいか、何を知っているかにすぎない。 持っている情報が行動を決めるパラメータを変化 させる機構が必要だ。さて、ではこいつらに考えられる 人格パラメータはなんだろう。 まず一つは人の話を聞きたがるか否かだ。 会話によって大きな快を得た奴は続けて会話を望む だろうが、たまたまあまり機会に望まれなかったり 何も知らない奴ばかりに出逢った奴は会話に多くを 期待しなくなる。オレとしては人間のハードウェア性能に はさほどの差はなく、よって人間の能力差は 環境によって大部分が決定されると思うタチなので、 であれば人工知能の性能はみな同じにして それでも個性が生まれることを証明すれば良い。

  さて、人間には慣習というものがある。 意味がよくわからんでもやってしまうもののことだ。 これは。過去にはそれをやることで利益を得られたという 根拠はあるものの、今そうであるかどうかは度外視して 実行される。これが個性のもう一つの大切な要素だ。 また、歩く、走るなどのようにもっと細い行動に 分解できるものをとめて一つの行動とする機能が 人間にはついている。絵をかいていれば絵を書く 回路ができるわけだ。 これを実現するには、 ある一連の行動の結果として 大きな快が得られた場合には、 その一連の行動をセットにして行うように しむければいい。 歩く時人はいちいち左右左右と考えるわけではなく、 歩くという行動しか決定しない。 これと同様に、あるまとまりを一つの動作として 実行するような機能をつける。この人工知能は しゃべるくらいしか行動がないので、つまりは口ぐせとか 会話のパターンがその慣習となるわけだ。

  とか考えていると、実はけっこう肉体なしでも そこそこおもしろげなものがつくれそうな気がしてきた。 人とはまるで違う形式だが、いろいろと仕組んでやることで 社会や個性といったものを表現することができそうである。 しかし、実際にプログラムするのは死ねそうだ。 実装上の困難については一切考えてないので 山とひっかかることがあるだろう。 所詮「原理上可能かも」という程度である。 仮にこんなものを作っても役には立たないし 偽春菜のおもしろさには勝てないわけで、 まるでダメだ。作った人以外おもしろくないものなんて 価値がない。

  さて、しかしおもしろくないのは腹立たしい。 これをどうにか人様もおもしろがれるようには できないものか。 仮に10000台のホストで独立に動いて、 そいつらが勝手に通信して社会をつくりでもしたら それはもうおもしろいことになるだろう。 それを可能とするためには偽春菜並みに人間にとって おもしろくなければならない。絵も絶対必要だ。 そして、どうにか意味のとれる日本語 をしゃべるようになり、かつこちらのセリフにある程度 支離滅裂じゃない反応を示してくれねばならない。 一体どうやればそこまで行くか。 その方法ではおもしろくならないと気づいたから 偽春菜は偽AIという手法を用いたわけだが、 目的がAIで手段がおもしろいこととすれば 当然まともなAIを作ることになる。 正統派のAIをおもしろくすることは可能なのか。

またAirかよ

  Airが家族愛ものに見えなくなった。 たまたま親と子であっただけで、 そこにあるのは人間と人間が いかに結合するかという問題に思える。 結合には役割が必要であり、別々の役割を二人が演じる からこそ二人は互いに互いを必要とし 一つになるのである。 観鈴は子、晴子は母。その役割の前では往人は 所詮傍観者にすぎない。 だが、そうは言っても描かれたのが親子であった のには理由があろう。むしろ、親子以外であってはならなか ったように思える。 観鈴と往人が恋人という関係であってもそれを表現する のは可能だろうが、 それではそれぞれがそれぞれの役割を 演じるという側面がよく見えなくなってしまう からである。 無理をして男と女という区分にしてしまえば問題が ボヤけるどころか ねじまがってしまうのは容易に理解できよう。 なにしろ数ある人間の役割分担の中でも親子は 最も問答無用だ。 本来避け得ず、意思にもおかまいなく 親は親となり子は子となるものだが、 あの二人はそれを与えられなかった。 その二人が結びつこうとした時、 彼女らはそのその最初から存在していない親子という 役割分担にでもすがりつかざるを得なかったのである。 その絶望的なものがあの美しさを演出したのではないか。 また、麻枝氏の恐しいところはそれだけに留まらず 観鈴すらを意思をもった主体としては 退場させてしまったことだ。 そうすることでひたすらに晴子だけが 浮き彫りにされ、心の交流云々以上に 演じるという側面が強調されたのだと思う。

  思えばこれは現実の人間関係においても同じである。 同じ人間同士のつきあいはおそらく長くは続かない。 なぜなら切実に互いを必要としないからだ。 ボケにはツッコミ、消極には積極、その他もろもろ とにかくなんらかの意味で相対する属性をもっている 必要がある。。 そうでなければその関係は必然性を持たないのだ。 イオン結合が分子間力よりも強いことを思えば、 このことはもっと低い次元からそのまま導かれてきた ものと考えてもよかろう。 そしておもしろいことに、その属性は最初から決まっている とは限らない。つきあううちに役割分担ができ、 それにそって彼等は自分の人格を変えてゆくのである。 「おれツッコミ、おまえボケ」というふうなものだ。 人格とはこの属性のことであり、だからこそ人格は 一定していなければならないのである。 役がコロコロ変わられては関係が保てなくなるからだ。 人格とは演技であり、それは人と人が結びつくための 手段なのではないだろうか。 その起源はおそらく生存のための 分業にあるのだろうが、今ではそれは生存の道具 などという役割をはるかに超えており、 結合を求めていないとき、 まして一人でいる時さえもその ペルソナを維持しようとするのである。

  身体が動かず、かといって辛くて眠れない状態では こんなことを考えるしかないのだ。

2001年3月27日

更新バカ列伝というものを見つけた。 要はとあるサイトがいつ更新された かを調べてそこへのリンクを 並べてくれているものなのだが、 なんかよくわからない点数がついている。 更新頻度かなんかでつけてるんだろうか。 もしそうならロクに推敲しないうちに上げちまって後で あわてて何回となく書き直すオレが 上の方にあるのも理解できる。

県立地球防衛軍アニメ。ああ、80年代。 動画は異様に良く、動く動く。 が、それ以外はなにをどうしていいかわからんほどダサい。

ゲームとかの中古販売問題で負けた方が 勝った方の理屈を理解 できないとコメントしていた。 理解できない頭が不思議ではあるが、 ネガティブイメージのある 言葉が一つ出てきただけで文章の意図が 理解できなくなってしまったりすることを考えれば、 より強い利益などという先入観があっては 無理もなかろうという気もする。 相手に理があることを知って、その上で自分の利益のために 自説を曲げないのは相当なワルだ。 たいがいは 相手に理があろうがなんだろうが自分の不利益になることは 理解しようとすることすらできないのである。

「しない」と「できない」の間には無限の段階が あるのであって「それはできないのでなく、しないのだ」 といって責めても無駄なことが多い。 人の持つ自由意志はそんなに大きなものではないのだ。 過失と故意、責任能力といった言葉の悲しさは、 アナログな現実とデジタルであらざるを得ない法律 の葛藤の悲しさである。 「あの時こうしないこともできた」という言葉の持つ ニセモノ臭さはそこに起因しているのではないだろうか。

後悔は未来の行動を規定する因子の一つであり、 それ以上でも以下でもない。

「顔のない月」。わざと誰にも会わずにやってたら いきなりキャラが豹変したり、同じシーンが二日連発 したりとバグまみれ。そしてバグとは関係なく 突然な展開。とりあえずいまのところよくわからないの だが、何かと「これも仕組まれていたのかッ!!」 的な話でいまひとつ。さて、実家から帰ってきたら ヒロインのシナリオから片づけるとしよう。 ところで、このゲーム異様に重いのだが、 どういうことだろう。600MHzで重いゲームというのは どう考えても犯罪だと思うのだが。

激、カゼ。熱+セキ+のど痛+悪寒。 ところでふと気づいたのだが、 酒飲んだ時の感覚ってのはこれとよく似ている。 オレは今だかつて酒を飲んでなにやら 楽しくなったことはない。 頭が熱くなって痛みが走り、動悸は激しくなり、 自制が効かなくなり身体機能も落ちる。 ロクでもないことを口走り、 かつそれを鮮明に覚えているために非常に後悔する。 どう考えてもいいことなど一つもない。 おそらくエタノールはドラッグとしては かなりお粗末なものなのだろう。

みなそんなに酒を飲ませて本心を聞きたいか。 聞きたい本心が聞けることなど稀だと思うのだが。 もしかしたら「行方不明より死亡の方が楽」という心理 と同じなのかもしれない。確かにそうならば理解できる。

文章化

  最近文章を書くのが面倒になった。頭の中にある伝えたいことを 文章に直すのがとてつもなく面倒なのである。まず、 言葉の定義をちゃんとしないといけないという段階で面倒くさい。 自分の中でのイメージを できるだけ正確に書かないと誤解の温床になるからだ。 言語化することによってポコポコ生じる論理矛盾や穴を修正するために いちいち言葉の説明やら例を加えねばならないのである。 そしてそもそもこの頭の中にあることを まだるっこしい言葉なぞに直すことそのものがすでに面倒くさい。 こういうことを考えていると「なぜ伝えたいのか」というところに話が 行くのは避けられず、結果「別に理由ねえぞおい」とか 「そんなに目立ちてえか、ああん?」ということになって 伝えたいという感情が理屈に駆逐され、 かくして「書かなくていいや」となるのである。

  そして何よりも、 どれだけ努力しても人類の熱力学的分布の性質(=社会のしくみ、カオス、なんでもいい) とオレの能力とという制限によって、 字面だけ、あるいは字面すら中途半端に読まれて誤解され あまつさえそれを元に誹謗中傷あざけり鬱反発無駄な深読み その他をされる可能性というのがゼロにはならないのが 辛いのである。 ゼロどころかかなりの量からまるで減らない。 その害を無視できる量まで減らすために 一体どれだけの努力が必要なのか見当もつかない。 こうなると書き方以上に書く内容の方を修正せざるを得ないのだが、 元々伝えたいことがあって書き始めるのにそれ自体を修正したのでは 本末転倒もはなはだしい。つまり書きたい事が書くべきでないのだから、 書く気が失せるのである。これをいかに超越すれば良いのだろうか。

  と、こうやって書いただけでも山と修正すべき個所が見つかる。 最初の「面倒くさい」は極めてネガティヴな言葉であり、 使っただけでこの文章のイメージが固定されて真意が伝わらない可能性がある。 よって使うべきでない。 それに上の段落の「字面だけ読まれて誤解され」付近は 「てめえら読解力ねえんだよ、クソ」とオレが思っているようにとられる 可能性が極めて高い。よって仮に本当にそう思っていたとしても削除すべきだろう。 また、「動機がなくなる」みたいなことを書いていれば、 「書きたくねえなら書くなよ」という意見も出ることだろう。 そんなことははるか昔にわかっていることであってその先を問題にしているのだ と言いたいが、こういうことそのもの、 つまりはオレの頭の中そのものが大多数の他人にとってどうでもいいことなのだから そう言ってもやはり仕方ないのである。 また、伝える動機がなくなる云々のくだりは この表現自体「動機なくして人は動かない」という考え方の前提を わかってもらうことが必要なわけで補足がいる。 ただ「書く気を失う」と書いただけでは 「わかってもらえなくてスネてるだけ」としか伝わらない。 オレがスネているのは事実だが問題はそのスネ方がどのようなものかなのだ、 ということは伝わらず、短絡的に「こいつはフヌケだ」ということに なる。読みやすい範囲の長さと文体で有害な誤解を抑える努力を 惜しむつもりはないが、そうやって努力しているうちに元々なにをどうして 伝えたかったのかがどんどんあいまいになってゆくわけで、 結果なにがなんだかわからなくなる。 事実この文章は最初に上げてから数回書き直しているが、 誤解ゾーンをつぶして回るうちに何がいいたいのかわからんようになってしまった。 元々どういう衝動にかられて書き始めたのかがもう思い出せない。

WEB日記

  日記に段落ごとリンクを入れようというお話。 私の場合、そういった閲覧の便宜を計るための配慮って奴をするのを ジャマする最大の要因は恥ずかしさと恐怖です。 段落であれ日であれそうやってリンクを入れておくということは、 人から見られていることを前提とします。 つまり、自分の日記はわざわざ人が見に来るようなものなのだ、 と自覚していることを示してしまうわけです。 しかも、 時間が経ってもその文章に直接アクセスできるようにしておくということは ナマモノ文章ではないと自分で言っているようにも見えます。 なんというかつまり、己惚れてるみたいでヤなんですな。 私はかなりの期間日ごとアンカーもない状態でやってましたし、 それどころか古い物はWEB上から消していました。 どこぞから反応されているのを知ってから日ごとアンカーだけは入れるように なりましたが、いまだに段落アンカーまでは入れていません。 技術がロクにないのでスクリプトを書くのが面倒だというのが 一番の理由ではありますが、 てきとーに覚悟もなく書き散らしたものごときにそこまでせんでも という思いがあるわけです。

  もちろん、そういううぬぼれっぽいのがイヤなどというのは個人の都合であって 見る方が不便なのは改善した方がいいのは確かです。 なんだかんだ言って反応されることもたまにあるのは事実だし、 人が3ケタ見に来てるのも事実だし、いくつかのアンテナに捕捉されて るのも事実なわけで、人の便宜を計る責任があると言われても文句は言えないし その方が私もウケるわけで何も悪いことはないでしょう。 しかしなんというか、人にウケていることを自覚してそれに基いた行動を取る ということにいわれなく恥ずかしさを感じてしまいます。 目立ちたくて、チヤホヤされたくて仕方ないくせに でしゃばっていると思われるのがたまらなく怖いのです。 そんなエゴとはおさらばすべきなので、そろそろ バシっと日記スクリプトを書こうとは思っています。

  私が思うに、「おもしろいものはより便利な形で公開すべきだ」 というのは無責任に読む側からの意見にすぎません。 先にリンクを張った文章の主旨は「段落アンカーってものがあるんだよ」 という提案もしくは紹介ですので問題はありませんが、中にはもっと過激な 人もいます。 おもしろいものを公開しないことを「おもしろ罪」だと言うのは私も賛成では あるのですが、なんぼなんでも限度というものがあるわけで それが適用できるのは誰も大した不幸を被らない場合だけなのです。 日記の場合公開にはリスクがつきもので、 著者が人間的に未熟な場合は 本人とその周辺にかなりの不幸が起こる可能性があります。 口でわめき散らすのと違って本人が知らないところで 事が大きくなり、本人が知った時にはもう手遅れなのです。 今私も他人のサイトの文章をネタに自分の意見を書いているわけですが、 これは内容によっては陰口になります。 すでになっているかもしれません。しかし本人がこれを知れる保証はないのです。 WEBというのは文章がもつ誤解されやすさと おしゃべり並みに簡単に公開できることが 結びついた非常に恐しいメディアだと言えましょう。

2001年3月26日

RM2終わり。本もそこそこ売れたようで、とてもうれしい。 そしてその後は清水さようなら宴会。肉。

アホにjagが帰った。

ONE2が出るという話は6日ほど早いと思う。

日記がつまらんと言われたが、 実験と資料作りに明け暮れる中で日記など書けるはずがない。 日記のネタの整理にはいくらかの時間がいるのだ。 確かにいろんな事情によって日々呪いはたまるが、 呪いは文章にすると頭の内外で増幅されて アクマイト光線破裂状態になるため、呪いを文章にすることは 禁止している。

2001年3月25日

ああ、忙しい日々がとりあえず終わった。しかし今日は今日でreliable memories2。 今アホ、清水、jagの3人が先鋒として会場に旅立ったところだ。 オレは後から行く。実は明日も会社説明会なので忙しいには忙しいのだが、 まあ学会に比べればカスのようなものだ。

学会。教室でOHPで説明するだけ。だったのだが、人がメチャクチャ入った。 オレの前までは大した人数でもなかったので「この程度か」と タカをくくっていたのだが、オレの番になると人がやけに増えていた。 立ち見まで出る始末だ。もちろん演題に「DNAチップ」と書いてあったのがキャッチー だったというだけでオレの研究がどうというわけでもない。 それだけにうぬぼれたり圧力を感じたりはしないのだが、 単純に人が多いと緊張する。人が多かろうと少なかろうと やることは一緒なのだが、心理というのはそう単純ではないのである。 終わってからも質問が絶えず、時間が終わって会場を出てからも呼び止められた。 どうやらみな相当DNAチップに興味があるらしい。 要は果たして使えるのかどうかが知りたいのだろう。 ボスによると熱心にメモをとっている人もいたそうで、 まったくご苦労なことである。意味のあるデータなど一つも挙げていないのに。

ところで、ギャルゲー的回路、あるいはラブコメ的回路が 頭にどうも染みついているらしく困る。 現実はそんなにドラマチックではないしチンピロリロリンとかいいながら仲良く なるものでもないのだが、そういうのがふと頭をよぎる瞬間があるのである。 まったくもって非常に困る。これまでの人生において一度も彼女とかいうものが いたことがないだけにダメージはひとしおだ。 にしても23にもなって相手がいないのは少数派であるらしい。 うちの研究室でも7割の人には相手がいる。それも「今相手がいる」という条件で 7割であって、「一度はいたことがある」という条件にすればもっと高かろう。 別に相手がいないからといって困ることは何もないのだが、 どうにも相手がいるという状態には興味が尽きない。 しかしその一方でその知的好奇心っぽくつくろった感情も 所詮性欲による裏付けを持っているのが明らかなだけに、 行動に走ることがためらわれるのである。

やったことないものをネタにして創作するのは大変だ。取材が必要になる。 取材なして書いておもしろいこともあるが、世の中の人は多く「事物が正しいか」 によって非常に評価が左右されるため、 本質に関係ない些細なことでも間違うと評判を落とすことになる。 さて、これが経験不可能なこととか不可能に近いことだと当然取材するか想像するか しかないのだが、恋愛となるとどうだろう。恋愛と言うとイメージとして多少狭いが、 男女の関係と言い換えた時には地上の大部分が経験することとなる。 果たしてそれについて経験なしで書いてまともなものになるのだろうか。 というわけで、そういう意味でも恋愛をしてみたいのだが、 こんな動機で恋愛をしてどうするというのだ。

どうも恋愛経験のない人間にとってギャルゲーはメチャクチャ有害な気がしてきた。 そしてギャルゲーのターゲットは主にそういう人間なわけで、 つまりギャルゲーは有害なのだと言っても納得できてしまう。 しかしだからといって根絶すべきだとかオレはやらないとか言うことにはならない。 なにしろ人間は自分を貶めることにはなにかと熱心になるものなのである。

2001年3月24日

アホが来た。

学会終わり。大したことない。

2001年3月23日

忙しすぎ。jagを家にほったらかして実験にいそしむ。 一日に3回二次元展開をやったのは初めてだ。

ところで、備えつけのPSプリンタにlprが通らない原因がなんとなく知れた。 MACどころかwindowsNTもFreeBSDもダメなので絶対プリンタが悪いと思って 調べると、ハードディスクがついていないのである。 ジョブが送られてくるのをためる装置がなくてはさすがに受けつけられまい。 もちろんオレの浅知恵など超越した機構によって スプール機能が実現されているかもしれないが、なんぼなんでも無理は無理だろう。 動作に同期してデータを送ってやるか、誰かがスプーラをやってやるか せねばならんわけだ。というわけでtcp/ip経由のsmbで windowsNTにサバさせることにする。 それもダメならプリンタケーブル買ってきてtcp/ipさようなら。 原始時代へ逆行だ。

長月氏にそそのかされてとらハ本計画。 6/3のcomic communicationが大きいし狙い目だろう。 7/1のとらハオンリーは捨て難いが、東京ではるか彼方な上に その日はエネルゲンが別イベントに参加するのでダメである。 というわけで、参加者が集まるようなら本気で決行する。細かいことは 人間が集まってから決めるので、気合のある人は申し出てくれ。

tcp/ip smbでwindowsならどこからでも印刷できるようになった。 しかし残念なことにmacはまだだ。macがsmbを解さないからである。 NTでlpdを動かさねばならないのだが、よくわからない。 というわけでNTをFreeBSDマシンに差し換えてlpdとsmbを両方しゃべらせることにする。 それにしても、誰かファイルとかプリンタ共有の標準を決めてくれ。 できたらCDROMとかスキャナとかそんなのも全部共有できるとたまらない。

savage4

  情報ありがとうございます。 しかしsavage4では誰彼が完全にやる気をそがれるくらい(スクロールが3コマだったり) 遅くなるので、 もしRage128GLがそのせいぜい1.5倍くらいしか速くないとしたら それでもけっこうイヤ。ひょっとしてsavage4proとただの savage4はかなり違うんだろうか。 にしても、仮にもAGPのsavage4が特定の能力においてとは言え PCIのpermedia2に完敗するというのはあまりに寒い。

  ところで、MVP4は遅い。キャプチャーカード経由で動画を見ていると 明らかにコマ落ちするのだ。 もちろんsavage4やpermedia2の時はそんなことはなかった。 最後にコマ落ちしたカードはtrio64vだったと思うので、 コマ落ちは本当に久しぶりである。 が、そんな奴でもxengineではpermedia2より速かったので、ビデオの性能というのが よくわからなくなった。 というわけでビデオカードの動作というものを勉強しよう。 そうすればハズレをひいた時に納得できるし、ハズレかどうかテストする プログラムを書いたりもできるだろう。

2001年3月21日

「誰彼」終わり。詳しいことは後で別に書くが、なんかそれなり。 しかしプログラムとか演出とか音とか曲とか塗りとか、 つまりシナリオ以外はかなりがんばってて逆に悲しかった。 いや、シナリオもつまらないとまでは言わないのだが何かそれなり。 ところで、おまけの寒さは今までで最強だ。非常に痛い。

ビデオカードをsavage4からpermedia2に換えた。換えたというより戻した。 誰彼の動作がなぜかsavage4よりpermedia2の方が速いのだ。 おそらくsavage4のドライバが何かマズいのだろう。 そう思って最新版を落としたらハングしたので、あきらめてpermedia2で 行くことにする。

学会というのがだんだん大したことのないものに見えてきたおかげで、 完璧な発表をしてやろうという気が失せてきた。大学の普通の教室で 備えつけのOHPでせいぜい数十人を相手にしゃべるにすぎない。 増して時間は10分だ。しかしさすがに今のままではロクなデータがないので 今日明日はがんばらねばならない。ちなみに明日は研究室の中間報告。 学会ある人免除してくれたりするとありがたいのだが、そんな慈悲はない。 資料作るのが面倒だ。

下の部屋を見てきた。明らかに涼しそうだし、押し入れの広さも変わらない。 部屋も6畳で同じだ。が、配置が決定的に違う。 台所が分離するのだ。加えて階段の下であるため、イヤな形に天井が低くなっている。 そのために異様に狭く、とてもではないが中華なべを振るスペースはない。 料理を犠牲にして暑さを逃れるか、暑さに耐えて料理をとるかだが、 料理は捨てたくない。 というわけで引越しはしないことにした。 排熱の手段を考えよう。天井付近に布を張って 赤外線放射を防ぎ、なんらかの手段でそこに溜まる熱気を排出する。 暑くなる前に手を打たねばならない。

夜はクーラーでどうにかなるが、 昼は天井放射のためにクーラーが役に立たない。夜を涼しくするためにも 昼のうちの排熱はとても大切だ。また、同時に日光を部屋に入れないための 遮光も重要になる。 遮光はアルミホイルでどうにかなるが、問題は排熱だ。 窓からの強制排気をもっと強力に行う必要がある。去年までは扇風機を 窓にひっかけて放熱していたが、不安定で使い勝手に難があったしいまひとつパワー が足りなかった。 ここはやはり換気扇そのものを手に入れて窓に無理矢理設置した方が早い。

WEBで調べると日立とかが換気扇を作っている。窓用のやつだ。2万弱くらいで 買えるようで、中華料理や魚を焼いた時の排気にも使えそうだ。

2001年3月20日

「お前誰だよ」。 読んでください。おもしろすぎます。名言多すぎ。

2001年3月19日

練習会無事終わり。無事すぎるくらいだ。しかし、まだデータが出揃ってない。 明日も実験。そしてperl漬け。

最近日記が無難だと言われた。難にしろと言うのか。 まあそれはともかくとして、書くことがないのだ。

2001年3月18日

perlの二次元配列が普通に$aho[$i][$j] とか書けることがわかって進展。perl本のややこしい書き方 のおかげで混乱したが、ちゃんとそのややこしさを受けとめないと上には 行けないのだろう。ああリファレンス。

Meがおかしいので98に戻す。が、謎エラー(メモリが足りません)が出て IEが立ちあがらない。2度インストールしても同じ。 イヤになってw2kにしたら、見事に安定。ONEが動かないとは言え これはもうしかたなかろう。windowsがおかしくなるのはドライバとか機械のせいだ と言うことだが、それは我々にはどうしようもないことなので 結局windowsが悪いのと同じに見えてしまう。 結局なんでもデカくなれば弱点は増えるものなのだ。

2001年3月17日

研究用のプログラム。コマンドラインスイッチで挙動が変わる ようにしようと思ったが、面倒くさいので標準入力たれ流しフィルタを たくさん作る。そのうちちゃんとまとめよう。

横でsense offやってる状態でプログラムはなかなか風流だ。

perlで二次元配列。つまる。しかし今からCに換える気がしないので このまま突入するしかない。朝までに解析を終えねば死。

2001年3月16日

日帰り横浜。

向こうの先生にこのサイトの存在が知られて、あまつさえ読まれていた。 メール送る時についクセでサイトURL入りの署名を入れてしまったことがあった のだが、まさか見られるとは思わなかった。まあ別にオレが オタク系人類であると知られたところで困ることはないのでかまわない。

「猶予の月」(神林長平・ハヤカワ文庫)。 なにがどうだかよくわからんがつまりおもしろかった。 気合が感じられる作品だ。 これがSFだとするならば星界の紋章は中途半端だということになるが、 これをおもしろく読める人間はさほど多くないのではないだろうか。 オレも細い設定とかはわかりやすい言葉に変換してしまって キャラの頭の中だけ追ってる状態だったので、この作品を十分に 味わったとは言えないかもしれない。

WINDOWSはえらいらしい。 人の目につくのは良いところでなく悪いところなので すごいのが知られないのも無理もないとは思うが、 確かに言われてみれば事実上WINDOWSでしかゲームをできないわけで それには数の論理以上のなんらかの技術的背景があると考えてもいいのかもしれない。 オレが受けている恩恵も確かに無視できないものだ。 でも、止まるのはやめてくれ。止まったように見えて実はちゃんと動いているので 待つべきだという話も聞くが、待ってられないでリセットを押してしまう 人間を責めるのは酷だろう。 ところで、mac OSにすごいところはないんでしょうか。

このクソ忙しいのに研究室のネットワーク環境の整備をとある事情で3月中、 それも学会前に片づけてくれと言われた。 もちろん3月の道路工事と同じ理由である。 ついでにオレの机は別の部屋に行くので その移動作業もある。そこら中にはびこるアップルートークが サブネットをまたげないのが問題になっていたのだが、 どうやらMACはLPRを使えるらしいし ファイル共有はsambaに一本化すればその問題は解決できる。 人の多い2部屋にルータを設置して DHCPとNATをまかせ、 FreeBSDサバはsambaサバに特化させる。これで見通しが立った。

EOのサイト発見。本人は死んでいるので弟子だかなんだかが作っているのだが、 本人の文章がかなりたくさん載っている。 書いてあることにいくらかのフィルタをかけないとまともには聞こえないくらい 電波で反社会的ではあるが、彼の究極的な主張はかなりささやかなもので さしたる害があるものでもない。 一言で言えば「楽に死ね」ということになるだろうか。

ここにある問答すげえ。マジすげえ。洞察の鋭さがハンパじゃない。 電波さなんか微塵もない。まともすぎる。 これほどの人がなぜこんなにマイナーなのだろう。

2001年3月15日

風邪薬が「風」のところで改行されていたために 一瞬「邪薬」という言葉が目に入ってビックリ。 すごそうだ。

弟は公立(二高と言うらしいがレベルはしらない)に受かったそうで、 ラサールは辞退。ネタとしてはつまらないが、 その方がよかろう。金もかからないし両親も淋しくない。 にしてもロクに勉強しないでよく受かる。

Meに変えてからゲームがなにかと挙動不審だ。今「誰彼」をしていたのだが、 やはり止まる。Airもなにかぎこちない。ダメだこりゃ。

ところで誰彼。がんばっている。極めてがんばっている。アニメーションはするし、 字の出方はかっこいいし、よく動くし、演出は凝ってるし。 しかし、文章がショボいし全般にセンスがない。ヴェドゴニアのオープニング のような問答無用さがない。「オレはこれがウリだ!見ろ」という勢いがない。 まあ、最後までやらないとわからんのだが。

KANONラジオ

  いまさらながらに録音してあったKANONのラジオを聴いた。 死ぬほどいまさらである。 で、始まった瞬間負けだと思った。あの曲は汚ないくらいいい。 そらKANON売れるって。感動もされるって。あの曲でいきなりわしづかみ。 当然曲だけじゃ終わらんし。でまあ、それはいい。

  この司会(パーソナリティというのか)の二人は佐祐理役と舞役の人なのだが、 舞役がすごい萌え声。佐祐理の人は普通。すっげえ普通。ちゃんと普通。 でも舞は萌え声。やりすぎに萌え声。まさか地か?佐祐理の人が普通にしてる 隣で無理して萌え声にする必要もなかろうし、ひょっとして完全にとは言わんでも そこそこは地か? まあそれはともかくとして、なぜせめて逆じゃなかったのだろう。 いや、逆なら逆で佐祐理がかなり萌えすぎだったとは思うのだが、 なぜ舞がこれ?作者達の頭の中ではこの系統の声だったということなのか? まあ、済んだことな上に関係ないのでいいんですが。 ところで、読まれるはがき、痛いです。 ついでに、内容KANONにまるで関係ないです。こういうもんだとは聞いていたし こういうもんにせざるを得ないのもわかるが、あまりの関係なさに呆然。 この声聞いてるだけで幸せというのはわからんでもないが、 いや、わからん。

  少々最近の声優にも詳しくなっておくか。なにかとおもしろい気もする。

  感動系アドベンチャーゲーム…。いや、Airの売り文句なのだが、それはどうか。 まあファンの大半は「泣けた!!」とか「萌えた!!」とか言ってるんだろうし 実際オレも似たようなもんだからそれはそれで文句は言わないが、 感動系。なんでも系をつけるのはネタとしてやるならいいが、 こういうマジもんでやられると「いいのか?」という気になる。 まして前につく言葉が感動となるとうさんくささはひとしおだ。

  KANON思い出すと、ああ、楽しいなあ。佐祐理と舞がたわむれてる光景が 頭の中に、というより二人がオレの頭の中でたわむれている。 なんでこいつらこんなに楽しそうやねん。それにひきかえAirは…。 そういう意味でやはりKANONはいい作品だと思う。 とらハと同じ意味で。

2001年3月14日

たまに研究室からWEB閲覧ができなくなる。おかしいと思って調べてみると 決まってnamedがいなくなっているのだ。 もう2回ほどあった。時限スイッチがついているとも思えないので、 なんかのはずみで死ぬのだろう。

近頃WEB回りすぎだ。人の話を聞かないことで定評のあるこのオレが 積極的に人の書いたものを求めている。その一方で生身で人に会うことを 面倒くさがってもいる。いかん。明らかに逃避だ。 これではニュータイプになってしまう。 オレはオールドタイプであることがウリなはずで、 エヴァを「なにそれ、終わってねえじゃん」という無慈悲な言葉で斬り捨てられる 健康さを備えているはずなのである。理不尽な物は「話の出来が悪い」の一言で 斬り捨て、よってsense offやkey系には毛ほどの関心も示さないはずなのだ。
「科学万歳。全てのことには理由があって、がんばれば報われます」
という信念がかなり最近まであったはずなのだが。

ゴミ捨て場からモニタと一緒に拾ったものの中にIBMの妙な箱があった。 CDROMとフロッピードライブ、それにキーボードとマウスのコネクタはついているが VGAも何もない妙な箱である。開けてみると本当にそれしか入っていない。 これはおそらく人間が触れる必要のある部分とそうでない部分に分けた PCの一部に違いない。ともかくも12倍のCDROMとFDDが手に入った。 これで研究室から借りている奴を返せるし、 FreeBSD機にもFDDをつけてやることができる。 ありがとういっぺい。

蚊が出た。刺された。かゆい。もう春だ。

モニタ鮮明。ボケてないのだ。普通のブラウン管なので縦横に丸いのが残念だが、 別に大した問題ではない。 そして今までのスピーカを使わなくていいようになったのがいい。 場所も食わんし、コンセントもいらないのだ。 加えてあれは清水に借りているものなので、 いいかげん返さないと永遠に返す機会がなくなってしまうというのもある。 さて、問題は余ったモニタだ。 どうもマルチヘッドはまだどんな機械でも動くというわけではないらしいので、 やっぱいらない。3台目を作る予定はどう考えてもないからだ。 というわけで誰かにタダであげよう。多少ボケてますが。 なお、まだNECの15インチモニタが2台ほど落ちているので、 コンピュータを買う予定の人は拾っておくとモニタ代浮かせられます。

すごい本

  「廃虚のブッダたち-銀河の果ての原始経典-」(EO著、まんだらけ出版)。 ニャ氏から借りたまますっかり忘れていたのが、大掃除とともに出てきたのである。 あからさまにショボイ印刷、編集、製本で自費出版丸だしの 全身全霊でアングラ系と言っているような本だ。 んで発作的に読んでみたのだが、これはすごい。 こんな頭の切れる人間がいたのかと思う。言葉はわかりやすく読みやすい。 しかもおもしろい。そして説得力がある。言葉がオカルト系な上に 自分が絶対の悟りを開いたものという設定で書かれているので そのへんでしんどい人もいるだろうが、 そういうのは味つけだと思えばさして気にならない。 マジでそういうことを信じていたらこんなまともな本が書けるはずがない と思うが、仮にマジであったところでやはり大したことではないだろう。 東洋哲学系に興味がある人は読んで損はないのではないだろうか。 ただ、たぶんこれは相当にレアな本なので手に入れるのはむつかしいかもしれない。

  この本は鋭い洞察で満ちている。 たとえば、人が没頭するものは全て「思考の停止」という共通の目的で行われる というような下りがあって、ビビった。ただし、ここで言う思考の停止というのは パズル的な枠組を与えられたものは含まない。つまり、自覚がない状態だ。 自覚がなければ苦悩がない。言われてみればそうだが、ドカンと定義されると ビビってしまう。 また「自我は肉体感覚の鋭敏さに比例する」、 という下りもビビった。人間は無用に敏感であるがゆえに苦悩し傷つけあうのだ ということだ。詳しくかかないとどうビビったのかが伝わらないとは思うが、 あまりに面倒なのでやめる。

  とにかく最大のミソは、目的とか意味とか、善とか悪とか、そんなのを やめろということだろう。自分の存在を無に近づけ、 動機とかそういうものを一切捨てる。そうすれば一切の苦悩もなく、 摩擦もない。 意味や理由を求める限り全ては善と悪に分類される。必ずだ。 良い物を求めればそこに悪いものが生まれ、その狭間で苦しむことになる。 改善しようとか、反省しようとか、 そういう意思そのものがすでに愚かだというのだ。 けなすのも誉めるのも同様に愚かであり、ただ存在していろと言うのである。 改善や反省は必然的に悪を生み出し、 けなすことも誉めることも価値観の摩擦を生む。 意味や理由が人間が勝手に生み出すものであるにも関わらず 我々はそれを絶対的なものと思いこまされている。 筆者はそう仕組んだ存在を 創造者とか宇宙の高次元生命とかいうふうに表現しているが、 科学的な人ならばこれを偶然とか社会による教育とかに言い換えれば 納得できるだろう。

  というわけで、かなり納得するところも多いのだが、残念ながらオレは 目的や意味、善悪といったものを完全に捨てようと決意するほどには ひどい目にあっていない。筆者も徹底的に意味や善にこだわって失敗した人が 最も悟りに近いと言っているが、まさにそれのことだろう。 本気でもうイヤだと思わなければ捨てられないのである。

  にしても、なぜこうもタイミング良く自分が考えていたことを グレードアップしたような本に出逢うのか。半年前であれば こんな本は「たわごとだ」の一言で片づけていただろう。 下の文章を書いたような精神状態の時にちょうど読むことになるとは、 めぐりあわせと言う他ない。「師は必要な時に現れる」という拳児に出てきた 言葉をイヤでも思い出してしまう。

ブルーでし

  権利とか、責任とか、そういうものが実際上つまりなんなのかがよくわからない。 権利というのはしても文句を言われないことで、 責任というのはそれに関して文句を言われ得ることだと オレは理解している。それ以上の意味を感じない。 同様に義務というのはしないと文句を言われることだ。 「〜〜でなければならない」というのは、 つまり「〜〜でないと文句を言われひどい目にあう」 ということであり、文句を言われてひどい目にあってもかまわないなら問題はない ことになる。実際自分のしていることを受けとめるなら何をやってもいいと よく言われるわけで、それは社会的にも正しいのだろう。 もちろんその「文句を言う」のは他人だけでなく、 自分の中の良心なども含まれるわけで、罪悪感は立派な「ひどい目」である。 原因と責任の関係は、因果と理由の関係と同じであって、 原因は責任と言い換えた時にしか人間にとって意味を持たない。 つまり、道徳は社会的要請なのだ。実体があるわけではない。

  人格は関数だ。Aという入力をするとBという値が帰ってくる、そういう関数 である。関数が不変であれば同じ入力を与えれば同じ出力 が得られるわけで、社会という巨大なシステムにとって予測がつきやすく都合がいい。 だから首尾一貫することは美徳であり、確固たる人格は称賛される。 つまり、人格は社会的要請なのだ。実体があるわけではない。 それが証拠にオレの人格はかくも不安定ではないか。 おそらくみなそうなのだろう。ただ社会的要請によって確固たる人格が あるように見せようと努力しているだけのことである。

  頭を使えば使うだけ人間はマシンに貶められてゆく。 マルチは絶対に実現可能だ。 自分に自由意志などなく 全てが決定されているという考え方は究極的な救いと言っても過言ではない。

2001年3月13日

発表練習などなど学会への追い込み。実験もたくさん。 金曜は横浜。時間がないので遊ぶ暇もなく日帰り。 そして3月末から4月にかけては地獄の就職活動。

うちのサークルの本が3/2のRM2で出ます。表紙は清水さバリバリで、 裏表紙もかたはらネタバリバリです。清水が16ページ漫画を締切までに 上げるという快挙をなしとげ、 ゲストの方も震えるような原稿を上げてこられたとのこと。 私もブルーな状態で描いたわりには身内にはウケているようでうれしい限りです。 関東でのおひろめは多少先になると思いますが、見かけたらどうぞよろしく。 本の題名は「そらのなまえ」です。

学会の練習会。ボスに直されまくった。 やはりあの世界にはあの世界のやり方がある。 背広は背広である範囲でしかカスタマイズを許さないわけで、 世界は自分の思惑など無視してすでに完成されているのである。

自分を主張することの動機が、 たまたま似た事を思っている人に「ああ、そうだよね」と言ってほしい だけではないかという疑いはブルーになるのに十分だ。 しかし、それでもいいのだろう。

英語の聞きとりは拳法に似ている。 拳法において力みを追放しなければならないのと同様に、 英語においても日本語を頭から追放しなければならないが、 追放しようとしなければ追放できず、かといって追放しようとすればす るほど追放できない。 英語を日本語に直して理解しようとした瞬間、英語はわけのわからない言葉と化して 流れていってしまう。 また、英語の聞きとりはスキーにも似ている。スキー初心者はちょっとしたデコボコで ハっとなって力んでコケるものだが、同様にちょっとした抑揚の変化などで ハッとなって日本語が出てくるとまた日本語を追放するまで英語は入ってこなく なるのである。斜面の凹凸に合わせるのと同様に、 自分を英語のリズムにチューニングしなければならない。

理解ある人

  「ことさらに正しいことを言っても相手は反発するだけで意味がない」 と言う人は、昔ことさらに正しいことを言ってひどい目にあった人なのだろうか。 オレはそうだと感じた人に惹かれる。オレは今まさに自分の人格のために ひどい目にあっており、その辛さを知ったままそれを克服した 実例を見ることはとても勇気づけられることだからだ。 無制限なやさしさが元からそなわっているという説をオレは信じない。 自分が通ったところにいる人間だから理解もできるし、共感もできやさしく なれるのだと思う。思いたい。 「てめえにはわからねえ」と反発する者に対しては「昔は私もそうだった」 と言うのが一番説得力があるのである。 オレが 内田樹氏 とか隆慶一郎とかにホれるのは、 彼等がオレのいる場所から先へ進んだ人に見えるからだ。 たとえば 隆慶一郎作品は人格的に魅力的な主人公はかっこいい一方で少々厚みに欠けるが、 敵役になる狭量でどうしようもない人物の描写は異様なまでにリアルくさい。 秀忠なんて「これオレだよ」と思うことしきりだ。 そういうわけで、 作者も程度はともかくそういうイヤな奴だった 時期があったのではないかと思うのであり、 そう思うことでオレは仲間とか師匠を勝手に作りあげて安心できるのだ。 まさに弱さである。

数だよ数

  わかりやすい人はいい人とされているというのは賛成。 なにやるかわからん人は社会の歯車としては不適格だ。 一見社会の役に立たんことをしている人とか、 無駄に過激な人とか、そういうのと同じであろう。 しかし、そういう類の人でも能力の裏付けがある場合には 往々にしてあこがれ(萌えでもいいが)の対象になる。これは おそらくある程度の不安定化要因は社会の柔軟性を保つ上で役に立つ、 ということと無関係ではない気がする。 「自分でそうなる気はせんけどあこがれはする」という程度の感情が みんなにあれば、その度合に応じた大した害にならない範囲で 変な奴が出てきて、逆に社会の多様性と柔軟性に寄与してくれるわけだ。 遺伝子のコピーエラーが進化につながるようなものである。 もしそうなら変な奴にあこがれてアウトローであろうとすることすら 熱力学的な支配の内にあることになるわけで、ああ、マシン萌え。 もちろん思いつきなので本気にしないでください。

  ちなみにこれを個人の中で意図的にやると 「共産党は怖い人々なので到底政権はとってほしくないが、 国会に30人くらいいる分には有益なので30人になるまでは投票してやろう」 という力学的なポリシーも出てくる。 オレは本気でそう思っていて実際入れてもいいかと 思うのだが、こういう思想の持ち主はポリシーがなく無責任だと言われるのが常だ。 政権をとってほしい政党に入れるのが正しいポリシーなのだそうだが、 自分のかよわい一票の力というものを過不足なく評価すれば こういうのも十分アリではないだろうか。

2001年3月12日

Air感想文。現実逃避。 あと16時間でOHP作らねばならんのだが。

えんえんパワーポイント。しかし学会用のデータが出るのは17日なのだ。 学会は24。でも予行練習が明日。そのためにOHPを作らねばならないにも関わらず、 その後にデータを差し換えねばならないのである。

エクセルで「~」を含むセルを置換する方法がわからずひどい目にあった。 エクセルでは「~」は特殊文字なのでそのものズバリ書いても検索できないのだ。 エスケープする方法があるはずなのだが、いくらヘルプを読んでも見つからない。 やむを得ず即席perlスクリプトを作って前もって置換した。 しかしその後も続々とエクセルでやり方のわからない処理がわいて出てきたため、 その都度即席perl。 負の値を探し出して逆数をとるとか、複数のファイルから数値を一個づつ抜いては 足して平均するとか、標準偏差を出すとか、それはもういろいろだ。 加えてフィールドの抽出にはperlよりもawkの方が楽 なのでawkも使った。 たぶんそのへんのことはエクセルのマクロとやらを 勉強すればできるのだろうが、まあ良しとしよう。

いっぺいの協力により、打ち捨てられていたモニタを手に入れた。 それも2台。実はさらに2台ほど捨てられていたのだが、さすがに4台はいらないだろう。 2台は同じIBM製で、スピーカ付きのすぐれものである。ついでに本棚も拾ってきた。 しかし部屋を片づけねばこれらをどうすることもできないので、 どうにか片づける。明日だ明日。

さて、モニタが3台になった。IBM2台をwindows機とFreeBSD機に 割りふるのは当然としても、今使っているボケボケモニタが余るのがなにか 惜しい。FreeBSD機に余っているPCIビデオを差してつないだりできるのだろうが、 それキーボードとかマウスとかどうなるのだろう。 2台のモニタを1台のように使うマルチヘッドという奴にすればいいのだろうが、 ビデオカードが違うような状態でそんなマネができるのだろうか。

2001年3月11日

えんえん研究室で二人で話してた。彼女の研究の話を聞いて、 「こんな実験やったらいいんでねえの?」みたいなコメントをしていたのだが、 かなり喜んでもらえてうれしかったりする。研究発表の時にちゃんと聞いてれば もっと早くそういう指摘をできたのだが、オレは研究発表をまじめに聞かない人なので そのへんはどうしようもない。彼女もオレと一緒で学会で発表せねばならん身なので、 できるだけ理屈の穴は埋めておきたいところだろう。実はオレもやばい。

OHP資料を作ろうかと思ったが、うちにはドロー系のソフトはない。 そこで研究室で描くことにした。 研究室ではみんなクラリスドローというのを使っているので どんなだろうと思って windowsに入っているクラリスワークスで開こうとしたのだが、開かない。 macのクラリスワークスでも開かない。 バージョンの問題なのかなんなのかわからないが、開かないものは開かないのである。 windowsにクラリスドローは入っていないので、 仕方なくwindowsのクラリスワークス内のドローソフトで一から描くことにした。 しかし、このソフトっていいソフトなんだろうか。 WEBで評価をさらうと「使いやすい」「多機能」 「MS-Officeなんてカスだぜ」という意見ばかりが見つかるので たぶんいいソフトなんだろうが。 ところで関係ないのだが、他人のOHPをMACのクラリスドローで 開いてどんなもんか見てみたら、かなり涙ぐましかった。 点線が一個一個書いてあったり、矢印を長方形と三角形を 組み合わせて作っていたり、それはもう悲惨だ。デカい「{」を4つの 曲線をつなぎ合わせて作っていたのもかなりガッカリした。

3/24日にMacOS Xが出るらしい。即座に研究室に導入してやろう。 あの落ちまくる奴等の根性を叩き直してやる。機械は優秀なのだから きっとすごいことになるに違いない。問題はアプリの互換性だが、 動くと言っているのだし動くのだろう。 動かなかったら対応アプリを買わせればいい。 PSカラーレーザをNT経由でappletalk共有するという わけのわからん状態もいずれどうにかしてやる。

とおもったらG3以上かつメモリ128MB以上推奨だった。 G4一台にしか入れられない。G3機はメモリが32MB。 残りは604とか68kで石が遅すぎる。appletalk追放は夢と消えた。

MacOS Xの特徴より。

1つのアプリケーションがクラッシュしても、 他のアプリケーションを巻き込みません。 つまり、なにかがクラッシュしてもコンピュータを再起動する必要がないのです。

例えば、Photoshopのようなアプリケーションで、 容量の大きなファイルを開く際にどのくらいのメモリが必要であるか、 といった心配をする必要はありません。アプリケーションがメモリを必要とする場合、 仮想メモリマネージャが自動的にアプリケーションに 必要なだけのメモリを割り当ててくれます。

そんなことをいばるな。MacOSってのはひょっとして とてつもない代物だったのかと思わざるを得ないではないか。 歴史的価値と使い始めるのに必要なスキルレベルの低さは 認めるが、このご時世にそれだけでいいとは思えない。そういえば windowsと比べてMacOSが話題に登らないのはOSとして論外だからという 話をどこかで聞いた。windowsはOSとしてカスいのでけなすが、 MacOSはOS以前だから話のネタにもしようがないのだという。 オレはどちらも詳しい中身は知らないので何とも言えないが、 上の文章を読んだ限りはそう言われても仕方ない気がする。

研究室のwindows機に実はMS-Officeが入っていたことが発覚。 バージョンが97と古いのだが、別に気にはならない。 で、パワーポイントがいい。何がいいって機能が多い。 こんなん素人路頭に迷うだろと思うような機能の洪水がたまらない。 クラリスワークスがなにかと誉められてるのは機能がなくて 迷わないからなんではないかとオレは思う。重いとか、多いとか、 まあいろいろ文句はあるのだろうが、PIII750の前ではそんなことは どうでもいいことであろう。もちろん自分が遅い機械を使わねばならん時には この評価は180度変わるだろうから、そのへんは誤解しないでほしい。 要するに自分が困らなければそれでいいのである。

現実逃避にいろんなギャルゲー批評を読んで回る。 それで改めてわかったのだが、あらゆる意見はもっとらしく書けるらしい。 「カスだ」とかいきなり書いてあるのは論外もいいところだが、 そこそこ「ここがこうで、こう」という形式にのっとって書いてあれば内容はともかく もっともらしく見えてしまう。それは人間が多様で正しい意見などない ということのいい証明になっているとも言えるだろう。 ある種の意見だけがもっともらしく見えるわけではなく、 もっともらしさは意見の内容よりも書き方に依存するのである。 つまり、なんぼ言葉を尽しても人は自分の趣味で物を見ているのだ。 技術とか云々を言って客観的なフリをしたところで根本的には主観であり、 独断である。むしろ、独断であるからこそ批評はおもしろい。 情緒のかけらもない文章は批評に向いているようでいて実は向いていないのだ。 ただ、人は理由がないと納得しないので、そこそこ人にわかる互換性のある言葉で 順序立てて書かないとダメでもある。いいバランスを目指そう。

ところで、うちのギャルゲー感想文はすでに相当古くなっている。 書き直してしまうと過去の印象が抹殺されてしまうのでそれはイヤだし、 かといって今とまるで違う感想を書いたものを放っておくのもアレだ。 というわけで、近いうちに主要なものはもう一回プレイして 新しい感想文を横に並べておく。たぶん別人が書いたんじゃないかというくらい 違うことだろう。正直今は痕におもしろさは感じてもすごさはまるで感じないのだ。 どうしても冷めた「歴史的価値」になってしまう。 なお、面倒くさいのでたぶん全部はやりなおさない。 特に重要なシナリオだけだ。 対象ゲームは雫の瑠璃子、痕、ONE全員、 KANONの舞。というか、Air感想書かねばな。いいかげん。

2001年3月10日

辛いことも過ぎるとコロっと忘れてしまう。よほど辛ければ刻まれて 半ばトラウマのようになるのだろうが、少々辛かったとしても 辛かったということを覚えている程度で終わってしまう。 不思議としか言いようがない。だから同じことを繰り返すのだ。

内田樹氏のサイト。 メッチャおもろいです。全部イケます。この人タダもんじゃありません。 なお、武道論は納得。でも目からウロコが落ちたとかよりも、 「これいつも言われてることだよ、おい」という感じです。 パワーとスピードとパターンで語られる近代格闘技に違和感がある者としては 「これだよこれ」という思いがあります。 「動くんじゃなくて動かされろ」とかは特にそれですし、 型稽古の意味とかもそうです。 型と打撃練習や組み手は車輪の両輪でして、型がうまくなると破壊力も上がるし スピードも増します。そして破壊力やスピードが増すと、 型もいい感じになっているのです。どっちかだけやると必ず歪みが出ます。 打撃練習の時にも型を意識し、型の時にも打撃を意識すると余計にいいです。 しかし、これで強いことを証明しないと負け犬の遠吠えなわけで、 カラテな人々に認めてもらうことなんてできないんですが。

続けて読んでましたが、師匠と呼ばせてくださいっていう感じです。

2001年3月9日

なお雪。止まないどころか積もっている。暗くも明るくもある白く黒い風景が寒い。

雪は止んだが、そこら中に踏みしめればギュッと鳴るほどの雪。

研究室卒論発表会。4人が全員時間に間にあわないという伝説的な瞬間に 居合わせてしまった。結局資料ができたのは4時すぎ。 どうにか発表会も行われて事無きを得た。 その後は追いだしコンパ。

原稿も出してしまったので、何をしなきゃならないんだったかと 途方に暮れてしまった。しかし、よく考えてみればやらねばならないことなど 山とあるのである。さしあたって学会の準備と実験。あとは就職活動と、 それに伴うお勉強。英語。

日記の人はみなそろいもそろってプログラムの人だ。 そうでない人もいるがえらい少数派である。元々あのネットワークが プログラムの話題でつながったからだろうと思うが、 ギャルゲがらみでその文化に入った身としては、ネタがわからないのが けっこう寒い。 オレもプログラムの人になろうか。 まあ、それとは関係なくならないとマズいのだが。

2001年3月8日

雪。溶けかけの雪。空が憎い。

まだ雪。春はそんなにイヤか。

2001年3月7日

下手にオチをひねり出すのも面倒くさいので斬り捨て御免な漫画にすることにした。 これで本来の意味での「やおい」漫画だ。 普通の意味でやおいにしてもいいのだが、 残念ながら男は晴子のダンナくらいしかいないのでできない。

今回くらいは「平山は頭の悪い漫画しか描けない」という定説をくつがえすような 壮大で知的で情感あふれる漫画を描こうと思っていたのに、 考えるのが面倒くさくてやっぱり馬鹿漫画になってしまった。 だいたい4ページでできるかそんなもの。 加えてオレは「ちょっといい話」は描かないという 誓いを立てているため、いい話を描く時には「かなりいい話」を描かねばならず、 結果挫折するのである。しかし、Airでいい話を描いても本家に勝てないのは わかり切っているので、今回はこれで許してやることにしよう。

佳乃。原作のセリフ読んでるだけでもたいがい不自然な子だが、 自分であの口調を書くと余計だ。

ボケとツッコミという二元論を超越して新たな次元に行きたい。 その試みの一つが今川アニメによくある 「作品一丸となって問答無用ボケっぱなし」 だと思うのだが、あれは見る側にツッコミを押しつけているだけで、 やはりボケとツッコミの形式は保たれている。 事実ちゃんと「ここでツッコめ」というシグナルがバリバリに出ているのだ。 麻枝氏のギャグもそれである。 あれのさらに行きすぎた形態が「ボケっぱなしツッコミ無用」で、 ツッコミ要求シグナルを出さないままボケにボケで応える理不尽の嵐の中に 叩きこむ奴だろう。野中英二(ドリーム職人)なんかそれだ。 しかしアレはセンスがないとただの理不尽に なってしまうので誰にでもできるものではない。 なんにせよ、結局考えてる時にはそんな理屈なんて頭の中にはないわけで、 結局沸いてくるまま書いたらそうなってしまうのだからそれでいいのだろう。 飽きられたら考えればい。

身内へ。うちの下が空いたぞ。引越したい人は急げ!! 家賃25000(水、共益費込み)くらい。

日記文化

  確かに 硬派と言えば硬派ですね。他の言い方も無限にできるとは思いますが、 まあ硬派だと思います。萌え話とかしてるのは私を含めた数人です。

  にしても、WEB日記流行ってますね。本当に。怖いくらい。 作品だか独り言だか会話だか わからないこの中途半端で柔軟性あふれた性質がたぶんたまらないのでしょう。 レスしても気付かれないかもしれないというのがかなり変ですが。

  ところで、 私が日記な方々の日記をなんぼかでも回るようになったのはつい最近です。 それまでは日記へのレスを日記でやるという文化に触れる機会はありませんでした。 今のようにアンテナをなんぼかチェックするようになったのは 「ひらしょー」で検索かけた時に何十件とひっかかってビビってからのことです。 カウンタでは数字しかわからず実感もなにもありませんが、 レス返されるのを見てしまうとさすがにビビりますね。 うかつなこと書いたら大変だと思うわけです。おもいきり書いてますけどね…。

科学万歳

  デカルトは「オレが存在していること」は疑いようがない 絶対の原理とし、他の全てを説明するための第一歩としたらしい。 それは逆に言えば、 「オレが存在していること」に理由はいらない、ということになる。 オレもかなり同意見ではあるのだが、オレの感情に即して言い換えると 「オレが存在していること以上に理不尽なことなど認めん」となる。 つまり、なんでも理屈をつけて科学しないと安心できないのだ。

  ところで、実は科学は理由や意味を提供するものではない。 理由とか意味というのは人間の感情なしで成りたつものではなく、 科学に感情は無用だからである。 科学が提供するのは「AならばB」という因果にすぎない。 しかし、科学者はしばしば「AならばB」を「BのためにA」と読み換える。 それは科学者が人間だからだ。因果を意味や理由に読み換えた瞬間 科学は人間の世界に接触する。因果という世界の現れを 人間が解釈するのである。かっこいいじゃないか科学。

  しかし、かっこいいというロマンだけではとてもやってられない のが現実。

2001年3月6日

「べつにこわないって」(200Hz周辺)
再生しっぱなし。太くてイヤという意見が多いが、慣れるとかえってかわいいかも。 ただ、これのせいで椎子が一人浮いてる気はする。

熱出やがった。頭痛来やがった。のどいてえ。ところで、「〜〜やがる」 はどこから出てきた日本語ですか。調べるの面倒なので知ってる人教えてください。

DirectXってのがなんなのかだいたいわかった。つまり、使うと速いのだ。 それだけで使う価値がある。 そしてwin32APIとは別物なので、 やりたいことが重なるところはDirectXだけ知ってればいい。 所詮APIなんてのは関数の塊にすぎんわけで、 まず概念とか共通ルールとか定跡とかを勉強し、 あとはなんかやる度にその機能をもった関数を辞典から 探してその通り使えばいいだけだ。プログラミングのスキルってのは もっと根本的なところにあるのだろう。 それがちゃんとあれば、どんなライブラリが出てこようとやることは一緒 ということになる。そう考えるとオブジェクト指向ってのは 大変な発明だったのかと思わないでもない。

メモリを買いにいった。256MBが7880円である。 カウンタのガラスケースを見ると二本しか残っていない。 しかし、あった方がいいという程度のものに8000円もの金を払うべきであろうか。 そうやって迷っている間に客が来てメモリを買った。 それを見てやはり買おうという気になったのだが、 彼は二本買って行ったらしくそこにはもうなかった。 もうDDRが安くなるまでメモリは買わない。

人間マシン

  言葉は感情を伝えるが、それは言葉そのものに感情がのっていると 考えるべきだろうか。 それとも言葉はあくまでスイッチにすぎないと考えるべきだろうか。 しかしこの二つの考え方は矛盾しない。 言葉は情報量が少ないだけでやはり感情を運んでいる、そして 情報量が少ないことをスイッチと表現しているだけなのである。 だから、所詮言葉と言うのは正しいと同時に間違ってもいるわけだ。 一般に対立する考え方というものは、いくつかのパラメータを設けて特徴づけると 単に量の差であることがわかる。たとえばこの場合二つの意見の違いは 「情報量」という量の差として考えられる。 量である以上間には無限の段階があり、その間のどこかに最もエネルギーの低い場所、 言うならば最も妥当な場所がある。たとえば「人はわかりあえるか」とか、 「オタクはダメか」とか「政治家は潔白であるべきか」とか いろいろあるが、それらは全て関連することをパラメータ化して 最適な解のセットを求める問題であって、実は命題ではない。 だからそれらは「人はどれくらいわかりあえるか」とか「オタクはどれくらいダメか」 とか「政治家はどれくらい潔白であるべきか」とかになる。 一見命題(YESとNOしかない問題) に見えるものも現実においては滅多に命題ではないのだ。

  人は頭の中で無意識にそういったパラメータを設定して超高速なアルゴリズムで 最適値を検索しているものと思われる。「なんとなく」の正体はたぶんそれだ。 人と人との距離とか、本音と建前の使い分けなどはこれで行うべきで、 無駄に性能の悪い理屈を持ってくるべきではない。 しかし、この「なんとなく」は外に出せないため、複数の人で合意を得るのには 役に立たない。こういう場合には理屈で問題をパラメータに分解して 最適解を探る努力がいるだろう。パラメータという概念は使わなくても、 現実に議論という奴はそうやっているのである。ただ、量の問題なのだということを 理屈でわかっておくとみだりに単純化したり独善に陥ったりするのを防げるのでは ないか、というだけだ。

  しかしその一方で、命題ではない問題を命題にしてしまうことで決定を行うという 作用も無視できない。「がんばるかがんばらないか」という問題は実は 「どれくらいがんばるか」という問題なわけだが、これを敢えて0か1に還元して 計算を放棄することで人は前に進むのである。 締切が近いんだから原稿を描けということだ。 この場合「どれくらい」は無用である。 なお、放棄しすぎると前には進むが摩擦が多く冷たい人になる。 放棄しなさすぎるとやさしい一方で何も成果は残らない。 「どれくらい放棄するか」にも最適解があり、それはよくよく計算すべき問題と思う。 オレはそれすら放棄した結果このザマだ。

  最近人類がマシンに見えて仕方がない。人類がマシンであるという考え方は 人類を貶める最終兵器であり、人類を最も不幸にするものだと思うのだが、 どういうわけかオレはそれにロマンを見ている。前世紀までの人間は そういうことを考えても説得力のある方法で人に示すことができなかったため 大した害にならなかったのだが、今世紀の人間はコンピュータとロボット技術 によってそれを示してしまえるかもしれない。オレは残念ながら人工知能とか マシンの技術を勉強しなかったのでそういうことはできないのだが、 そういう分野には頭の切れる人が山といて、 日々人類を貶める研究をしてくれている。がんばってくれ。

  研究室で原稿をかけないわりに待ち時間が多いのでこんなことばかり考える。

半分私信

  安心しろ。ネタが降りた。オチがまだだが、そちらもほどなく降りるだろう。 まだノリノリにはなってないが、ノリノリもそろそろ降りてくると思う。

  漫画をヒネり出すのは疲れるし、どうせ大したものは出てこない。 降りてくるのを待つ方が楽だしたぶんウケる。 さて、前回はパースが狂っているのをそこら中から指摘されてブルーになったので、 今回はそれにもう少し気を使うとしよう。あと、線を減らして一本あたりの執念量を 増やす。執念密度向上計画だ。 あと、機械でやれることは機械でやって工業度を上げる。 とにかく読みやすく、汚なくなくすることだけを 考えればいい。というわけで、メモリ足す。

  そういえば、 なんでも「度」をつけるのを改めろと誰かに言われた覚えがあるが、ダメか。 もしそのためにわかりにくくなっているならやめるが、 そうでなければ味だ。許されよ。

意外な事実

  WEB日記を見てて思うのだが、京大人が多い。 そりゃひとりみつかればそこからイモヅル式につながるのであたりまえだと 思われるかもしれないが、 なぜか独立に4人ほど見つかった。 偶然見た人の日記に「出町」とか「ルネ」とかいう単語が出てくると 「この人もか!」と思うのだ。

  というか、アニ同の人でこれ系の趣味まるだしのWEB日記書いてる人 メッチャ多い。恐るべしアニ同。

  そういえばアニ同と漫研は不思議なほど関係が薄い。かけもちしている人も なんぼかいたが、それをパイプにして交流するなんてことは オレの知る限り全くなかった。 しかし無理もない。WEB日記や学祭でのアニ同の活動を見る限り、 合うはずがない。なにしろ、漫研はオタクではないのだ。 最近微妙にオタクくさくなっているような気もするのだが、 やはりそれは本流ではない。そこがうちの漫研の特徴であり、空気であろう。 オレもそれを快いと思うからいるわけだ。 しかし、他の世界をのぞいてみたいのも事実ではある。

  もうすぐ新歓の時期だ。試しに顔を出してみるか。

2001年3月5日

聖と往人をダベらせていたのだが、往人を観鈴シナリオの往人にしたら 会話が途切れた。加えて佳乃放っといてどっかいっちゃった。 佳乃も呼びとめんもんだから、バス停行き。アカンわこら。 観鈴は呼びとめるから成りたつんだなあれ。 佳乃は聖おるから往人なんざいなくなっても大したこたあないが、 観鈴は超絶大問題だ。やっぱ、これ別のゲームだよ。 思い返せば美凪シナリオも別のゲーム。あんなセリフ吐かへんもん往人。 summer編も別のゲーム。まあこれは往人じゃないからいいにしてもだ。 結局のところ整合性とれてんのは事実関係だけで、 それ以外はまるでとれてないのだ。てんでバラバラ。

聖の姉バカっぷりはすごい。
「佳乃さえ幸せならいいんだ」
というセリフに微塵も自虐の響きがなくマジに思えるのは すごいことだ。ふととらハの真雪先生を思い出すが、あの姉妹に比べると こいつらはもっとタチが悪い。佳乃が聖にケンカを売る 光景など想像もつかないのだ。なれあって生きていくダメな選択肢以外 どうやってもありえない気がする。「支えあって」と言ってもいいが、 まあ同じことだろう。そして往人もその一部として生きるのだろうか。

「スラップスティックな日常」ってのは意味がわからんが、日常シーンで cosmic runがかかってるのは問題ありすぎだ。折戸先生、やりすぎ。 エンディングにまわしたのは正しい判断だった。

というか、それウソだろ。こんなもん日常シーン用に 作曲する奴なんているものか。 いかに地味なアレンジだったとしても、こいつはかっこよすぎる。

アボガドパワーズの社長のサイト。 こんなに楽しそうに苦しまなくてもよかろうに。 あこがれるじゃないか。ところで、 画面の明るさを100段階で変える処理に55秒もかかるってのはマジだろうか。 コンピュータってそんなに遅いもんなのか。

いろいろ考えてみてわかったのだが、コンピュータというのは バカがプログラムしても大丈夫なほど速くない。 そして、仮に10倍速くなってもやはりバカでもいいほど速くはならない。 ソートは極端にわかりやすい例だ。

2001年3月4日

sense offのCDをゲーマーズでゲット。にしても謎なのは体験版がついていることだ。 すでにやった奴しか買わんだろこんなCD。二枚目はゲームの曲がまんま 入っているので、ついでだデータもいれちゃえってもんなのだろうか。

cosmic runだったっけかこの曲。 ドのシャープとファのシャープとラのハーモニーがオレを壊す。 そしてシとレがドのシャープに移った瞬間のこの恍惚。 ああ、電子音。響く電子音。 わかるだろう。ただ、後半のラのシャープの頻度はちょっと輝きすぎてガッカリ気味。 序盤は落ちつきがよくて、言うならば一回目をつむった 真琴がもう一回目を開けてくれたような感動があるのだが、後半は新鮮味が薄れる。 確かに構成から行けばこれがまっとうなんだが、好みの問題か。 なんにせよこの曲はラがシャープであるかナチュラル であるかによって支配されており、 もしこのラのシャープの頻度がもう少し低かったら エンディングのイメージがガラリと変わっていただろう。

「萌え尽きた」
すばらしく使いたい言葉。

男性にとっての「女」あるいは「女の子」「女の人」といった言葉と、 女性にとっての「男」あるいは「男の子」「男の人」といった言葉は どう違うイメージをもっているのだろうか。 たとえばオレは文章中では「女」という言葉を使えない。 どうにもイヤな響きに感じられるからで、結果「女の人」を使う。 この段落の始めのような列挙の場合でも「女」はイヤなので「女性」としたわけだ。 しかしその「女性」にしても何か違う気がしてできれば使いたくない。 また、「女の子」はアレな理由によって別の汚れた意味を帯びているため、 現実の女性について書く時には微妙に避けたい。 こういうのは助詞「は」をつけるとわかりやすく、 「女は」とか「女性は」と言った時に自分でどんなイメージが来るかを考えると おもしろいわけだ。 なお、「男」は別になんらイヤな意味もないので平気で使う。 オレの場合は同意語として「野郎」の頻度も高い。 「男の人」は何かオレが男ではないようで使いにくいし、 「男の子」はマジで「子」でない人には使えない。 「男性」も「男の人」に似たイメージがある。 学校だと「男子」「女子」なんて言い方があったものだが、 あまりに日常語でなく使いにくい。しかしなんらイメージを感じないあたり 「男性」や「女性」の代わりに使うのも悪くないかもと思ったりする。 さて、他の方々はこのへんどうなのだろう。

恋愛してみたいなあ。敗北を知りたいなあ。 どなたか実験に参加してくれる女性はおらんものだろうか。 とか言ってちゃダメだな。人類の大多数は結婚できるんだから オレだってできるはずだが、大多数に入らない予感のようなものがうずまいている。 23で恋愛したことない人ってのは少数派なはずなんだが、 だからといって好奇心や年齢的あせりからやるものではないだろう。 気長にそういう気持ちになるのを待つとしようか。

ところで、ギャルゲーキャラはあざといセリフを吐くものだが、 実は現実にそういう女の人がおらんわけではない。マルチ的、椎子的、 あゆ的、その他もろもろの萌えキャラ系の反応や仕草は、存在する。 オレは見た。あれは、マズい。 それを見て以来ギャルゲーの萌えワードや萌え仕草の類に対する 拒否反応が吹き飛んでしまったほどの衝撃である。 たまたま特殊な人だというだけかもしれないが、 話していれば至ってまともだし、ちゃんといい人である。 もちろんいつも萌えキャラ状態なわけでは断じてない。ただ、たまに、
「おまえ、自分がかわいいってわかってるのか?」
とマジで質問したくなる。実際酒の席で冗談っぽく問いつめている人がいたが、 あれは酔ったフリをしてマジで日常の疑問をぶつけていたのではないか。 あれが自覚的なのかそうでないのかで世界がグルリと変わるような気がする。

sense offドラマCD一曲目。珠季が出てくる瞬間が近づくにつれてドキドキします。 ダメですか。

sense offエンディング曲。曲はまあどうでもいいが文句は言わん。 歌詞は変なので両手両足をあげて喜ぼう。 だが、この声なんとかならんのか。日本語外にネバりつく発音。 こういう発音はよく聞くので流行りなんだろうが、聞きとれんし嫌いだ。

Airです

  聖先生の思念体形成のためにAir佳乃シナリオ。 ああ、普通だ。観鈴とさよならする時はかなりキツかったが、 その後は普通で不安にならない。往人も普通のギャルゲ主人公になってるし、 普通にいい話だし、安心。往人の別人っぷりにはものすごいものがある。 考え方、しゃべり方、その他もろもろ完全に別人だ。

  ああ、聖ええやっちゃ。姉バカのものすごさにはもう。 佳乃の頭の足りなさもポイント高し。いや、実際あんなのいたら かわいい一方でうっとうしいんだろうが、かわいいのはいいことだ。

  にしても佳乃がいなくなるあたりは話が唐突すぎる。聖の対応もおかしい。 もっと取り乱せ。そして真剣にものすごい善人行動力を発揮する往人。 観鈴シナリオとは本当に別人だ。安心できる。誉めてるのかどうかは 微妙というか誉めてないのだが、不安にならないのはこの際ありがたい。 いいとは言わないが、ありがたい。わかるだろうかこの気持ち。

  Air-寒いギャグ-冗長な展開=たぶん名作=Air+超不安

  佳乃シナリオの寒いギャグは寒いだけでさほど問題ないのだが、 観鈴シナリオの寒いギャグは痛くて目をそらしたくなる。やってられない。 かったるい。腹立たしい。ただでもけだるい日常にいらぬスパイスを放りこんでも 味のないカレーのようなものだ。シナリオ上けだるい必要はあるかもしれんが、 寒い必要はない。 ONEはギャグが寒くなかった上に、あのギャグが本筋をより強烈にするために 大切だったのでよかったのだが、Airは寒い上にあまりギャグは本筋のためには 役に立たない気がする。しかし、もしかしたらあの寒いギャグがあのけだるさ を演出する大切な道具なのかもしれないが、そんな計算イヤだ。

  そういえば、美凪とみちるの登場シーンは痛かった。登場だけでなく 出てくる度に痛かった。そしてその痛さには二種類ある。 まず寒いギャグと無理矢理なセリフ。もう一つは あのとりつくろったような、 指一本で穴があく障子のようなうすっぺらい幸せ描写が折りなす不安。 この二つはけっこう密接に関連していて分けられたものでもないのだが、 できたら寒いギャグの方はご遠慮願いたかった。不安になるのはAirの最大のウリ だと思うのでそれでいいのだが。

  結論。Airはやっぱりすごい。あのけだるさと不安はおかしい。 もう娯楽を逸脱している。 佳乃シナリオとsummer編は避難所みたいなもので、そいつらがなかったら 凄味レベルは上がる一方で激烈に人を選ぶ上に誰も幸せにしない 作品になっていると思う。その方がいいとも言えるし、それはイヤだとも言える。 オレとしてはどちらがいいとは言えない。 娯楽度はKANON>ONE>MOON.>AIR。sense offをはさむとすればMOON.の前くらい。 なお、ファントムとかヴェドゴニアをはさもうとするとKANONのはるか前方で ディスプレイに収まり切らない。

sense off ドラマCD

  うおー成瀬ふつー。椎子やりすぎー。美凪関西弁は完璧ーでもふつー。 ちょっとかわいさが足りねーかも。 珠季完璧ー。透子ふつー。というか、ふつーの声多くて区別つかん。 成瀬が致命的に普通なのかたぶん。演技が無理っぽいから余計にだ。

  冊子を見ていた。シナリオの元長氏のコメントがメインなのだが、おかしい。 どうおかしいかと聞かれても困るが、ホアルバの説明書のキャラ紹介コメント のおかしさに似ている。ギャルゲーというイメージから離れすぎだ。 こんなに頭のいい人が、それを隠しもせずにこういう文章を書いてしまうのは、 どう考えてもおかしい。惚れる。むしろすでに惚れていた。

  珠季。「おはよっ…」の一言だけでイカれたが、珠季ー。珠季シナリオ声ついたら 死ねる。確実に死ねる。

  成瀬の人演技が下手なんじゃよー。それっぽくしようとして無理するあまり 感情表現ができとらんのじゃー。でも、もう慣れた。

  KANONのドラマCDに比べたら知らん人でも多少は聞けるよな。

  たまきー。

  うおー透子ー。 無口系はたいがいこんな感じばかりだ。舞もそうだが、なぜボソボソしゃべる。 この高周波の山(「ボソボソ」の「ソ」) どうにかならんのかー。声がかわいい人が無理して かわいくなさそうにやろうとするからこうなるんだろうか。 うー。しかし、声はともかくやっぱええ奴や。 あんがい美凪の人が普通に無感情にしゃべった方がよかったかもしれんな。

  「わりと普通の名前だね」
たまきー。そのセリフは最高だ。なにが最高なのかわからんが。もう。

  つまりストーリーがわからない。低次な解釈(事実の因果)は 明らかに不可能なので、高次な解釈(意思と意味)をせねばならん。 原作どころかこのCDの中だけで食い違いがあるという段階で 「低次な解釈お断わり」という バリバリのオーラが出ているのだが、さてではどうしたものか。 この人に限って意味もなく原作と食い違わせたわけではなかろうし、 ましてケアレスミスではない。 しかしわからんなりにもなんとなくわかる気はするんだが。 言葉にできんだけで。

  この人の欠点をあげるとすれば、メッセージをやりすぎに 理屈で語ってしまうところだろうか。たとえばsense offの理不尽さは メッセージ性にあふれすぎている。言うならば作者が現れすぎている。 しかしまあ、オレとしては「味」の一言で済ませたい。 嫌いな奴は嫌え。なお、そうは言ってもフロレアールは好きじゃないです。 すごいのはわかるが。だっていい奴おらんもん。

  「おはよ」だけ抜いて目覚し時計にしよう。他にもいろいろ抜くか。

  これは、いいものだ。以上。

  ゲームやってる時は別にそうこたえなかった曲が、 今単体で聞くとえらくいい曲に聞こえる。作品の評価のとばっちりを食ってるだけか、 良さに気づかなかっただけか。下の方で変な音が鳴ってる曲とかおもしろい。

ゆーれー

  信頼できる人から幽霊話を聞けたなら、オレは信じることができる。 信頼できるためにはさまざまな条件があり、それをクリアする人は非常にまれだ。 だが、今日のはポイントが高かった。幽霊とかそんなのって、 いるかもしれん。是非科学したいものだが、そういう人間には見えにくいそうだ。

  なお、当然だがこれはオレが「幽霊は存在するんだ」と信じたことを 意味しない。幽霊が存在するか否かというのは、人類の祖先が猿であるかと 同程度にオレの人生には無関係だ。どっちであってもオレの行動に変化はなく、 単なる「退屈な人生にそえる彩り」にすぎない。いうならばネタである。 今日のは「あると思って生きるのもいいかも」という意味であって、 「幽霊はあるんだぞ」と 強弁して回る決意をすることとは光年単位の距離があるのだ。 オレは科学人だが、それは思考の方法が科学だという意味で、 一般に言われる「科学で説明できていないもの」を否定する立場ではない。 科学は現在不完全であり、超能力がもし存在するのならいずれ科学される運命にある。 もし科学で説明できていないことを否定するのならば、 オレはオレの存在自体を否定せねばならないだろう。 自分の自我以上に非科学的な存在などこの世にはないと お思いにはなられないだろうか。 世の中の「エセ科学主義者」はそこまで頭が回らないので中途半端に カガクカガク言っているだけである。

  なんでもそうだが、自分で体験していないことの真偽は常に不明である。 極端な話「江戸時代などなかった」と言われても、オレには否定する材料はない。 「神は存在する」でも「おまえは地底人から授かった子だ」 でも「となりの佐藤さん実はロボットだったんだって」でも全て同じである。 ただ、周囲の状況や自分の常識などに照らして考え、 「どの程度正しいっぽいか」という判断を下すだけだ。 それは断定とは違うものだし、まして信じることとは似ても似つかない。 特にその事実が自分の人生に関係ないものであるならば なおさらである。江戸時代があったかなかったかという問題はオレのこれからの 生き様に影響を与えない。 そういうことに関して 「こうこうこうだから江戸時代はあったんだ。なかったなんて言うな!!」 と言われてもオレは見てないんだから知らんのである。 ただ、状況証拠的に「江戸時代はどう考えてもあったらしい」という 断定にかなり近い推量を行えるだけだ。究極的には体験したことであっても 完全に断定できるほどの証拠など提供しやしないわけで 全ては推量の程度の差でしかないのだが、人はどうもそれを忘れがちである。 世の中に完璧はなく、正義超人の友情とて例外ではない。

  実はこういうことを以前にも書いたのだが、前回は感情の高まりを引きおこしや すいネタだったため伝わりにくかっただろう、ということでもう一回書いた。

2001年3月3日

ラジオ英会話。最初の3分は絶望的に何を言ってるかわからなかったが、 その後急に聞こえるようになった。高校の時に作った英語脳が復活しだしたのだろう。 しかし、まだまだ。

WEB上で本名を名乗らないことにきちんと理由のある人は どれくらいいるのだろうか。もちろん逆にオレが 本名を名乗るきちんとした理由をもっているかは怪しいのだが、 名乗らないことは名乗ることよりも理由を必要とするとオレは思う。 身を守るためというのと責任をとらないためというのは 紙一重ながらも違うことだと思いたい。

なお、私には本名を出さない理由がない。 でもひらしょーの方が変換しなくていい分書くの楽だし 平山なんてそこらじゅうにいるので、 ひらしょーの方が物を特定するための呼び名としては都合がよかろう。 しかし、リアルスペースにおいてその便利な呼称を使うのには 少々のとまどいをおぼえてしまう。 そう呼ばれていたのは10年も前のことだし、自己紹介の時に「ひらしょーです」 などと言ったことはないのである。 ある種の文化においてリアルスペースで呼ばれるのと違う名を 名乗るのはそのミスマッチ感を味わいたいからかもしれない。

正義も道理も統計的なものにすぎない。 良心が統計的道理に従うか原理的道理に従うかは人によるのだが、 後者に近くなるほど人は尊敬されやすく愛されなくなる。 そしてその尊敬もまた何かの拍子に憎悪に化けてしまう程度のはかないなものだ。 人間は、勝手に期待しては勝手に失望し、 勝手に信頼しては勝手に裏切られ、結果憎悪するのである。 統計的道理こそがやさしさや人間性の正体であろう。 例え統計的道理が自己の保身に基づいて 形成されたものだとしても、それは問題にされない。

「英語をはじめて、顔が知的になった気がする。」(NHKラジオ英会話テキスト3月号)。
何か気になるが。

ラジオの外部イヤホン端子をサウンドカードのmic inにつないで
cat /dev/dsp>aho
としたら録音された。
cat aho >/dev/dsp
で再生される。これだからunixはやめられない。 ここを出発点としてもっといい方法を探そう。

2001年3月2日

元偽XX配布再開の兆しか。オレはアレを使ったこともなく ただ黒衣氏の文章を好きで読んでいただけの者だが、それでもうれしい。 しかし、それはそれとしてこの掲示板は大変だ。 なぜがんばって物を作ってタダで提供し、 ヤバいことになったにも関わらずどうにかしてサポートしつづけようとしている 人がこんな目に逢わねばならないのか。
「金を集めようとするにはちとやり方がマズかった」
「あの言葉遣いでは協力なんて得られない」
などなどの意見が例え正しかったとして、それを無関係の人間が さも親切そうに言うことにどれほどの意味があるか。 そしてたかる匿名の蝿ども。 オレは本物の部外者なので怒っても仕方ないとは言え、やはりやるせない。 しかし、おそらく当事者の方々はそういうものだと悟っておられるのだろう。

就職するのにまともな英語力が必要らしい。 そこで、NHKのラジオ英会話、ビジネス英語を毎日聞くようにして 聞き取り能力を回復させてゆく計画。というかそれ以上の労力は割けない。 さしあたってそれだけやりつつ5月のTOEICを受けてみてナマり具合を確認する。 その結果を見てからどれくらいマジで勉強するかを決めればいいだろう。 TOEICは2ヶ月に一回もあるので、 全部受けて今年中に730くらい取れたらいいななどと思うが、 一発目で500もいかなかったりしたらヘコむのだろうなあ。

ラジオ録音せな。拳法と時間がぶつかってしまうし、どうせなら保存して 何度も聞けるようにしておきたい。日記書きながらたれ流してるだけでも いい感じだろう。というわけで、コンピュータで録音し、果てにはmp3化まで自動化。 どこかで聞いたことがあるような作業だが…。

就職だぁ

  生まれて初めて就職活動らしいことをした。背広を着てネクタイ締めて 会社説明会に行ったのである。それも天下のIBMだ。 場所は大阪グランキューブ。妙に見覚えがあると思ったら、 去年の5月にコミコミで行った会場だった。妙な縁である。

  で、最初はえんえんビデオ上映会。「Why work?」というテーマで 何故働くのか、ひいてはどう働くのかを考えさせようという内容だったが、 映像センスは今一つであった。しかしコンビニATMのプロジェクトに どうIBMがからんでいったかというあたりは見ていておもしろい。 そして続いて行われたのが システムエンジニア、営業、開発の3部門から人が一人づつ出てきて 司会者がいろいろ質問をするというもの。どう評していいかわからないが、 まあ模範的な出来だった。 悪い言葉を使えば、茶番だ。だが、この茶番こそが社会を構成する大切な要素だ ということも同時に骨身にしみた。茶番であることは会社側が一番良く 知っているだろう。むしろ、その茶番をどれだけの計算によって演出し、 さらにその中にどれだけの本心を込めようとしたか。そこをこそ見るべきと思う。

  さて、面白かったのはその後だ。各部門に分かれてそこの人が いろいろと質問に答えてくれる時間があったのである。 最初に聞いたのはシステムエンジニアの人。話に聞いていた通り 技術者と営業の中間のようなもんで、勉強しながら外回りという仕事らしい。 人に接する職業だけに話し方が抜け目なく、プロを感じさせる。 次に見たのが開発研究部門。こっちの人はだいぶ親しみやすそうな お兄さんで、「ちょっとマズいことなんだけど」なんてい言いながら マイクを切ってひそひそ声にして注意をひいたりしていた。うまい。 次に行ったのが人事のところ。こっちは採用をとりしきるだけに どう見ても切れ者な人で、何もかもが非常にうまい。 質問に的確すぎるほどに答え、アホウな質問はサラリとかわす。 まさにプロだった。あんな人に面接されるのは恐怖である。

2001年3月1日

windowsプログラミングにはC++が必須と聞いてC++のゴツイ本を買った。 「一番ゴツいのを買って死ぬほど苦労して勉強する方が実りが多い」、 という大学受験以来の経験則に従ったのだが、さすがに今回はしりごみした。 ページ数が1キロもある。重さなら1キロどころではあるまい。 加えて中身もどう見てもすでにプログラマな人間向けである。 しかし読んでみればまるでわからんわけでもなく、 例に出ているコードを全部解読しながら読む覚悟さえすれば けっこうなんとかなるし、むしろおもしろい。 実際今日一日で、オブジェクト指向をどうやって実現するかという C++の基本概念のおおまかなところくらいはわかった。 同じ関数をいろんなデータ型に使おうとか(テンプレート)、 いろんなデータ構造で共通に使いそうな操作はまとめて提供してしまおうとか (汎用アルゴリズム)、メモリをチクチクいじらないと作れないようなデータ構造は ハナっから提供してしまおうとか(コンテナ)、 それはもういたれりつくせりである。おかげでCに比べればとんでもなく デカい言語だ。「プリプロセッサなんていう言語の仕様にないもんに頼るのは 美しくない」といってマクロを追放しにかかっているあたりにも男を感じる。

スキャナももう2400dpi時代に入るらしい。印刷できんぞそんなもん。 にしてもA4グレイスケールが531MBってのはなんだ。

関数のオーバーロード、リファレンスの概念がわかった。 こうたてつづけにわかると気持ちよくてたまらない。


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