日記0104

2001年4月30日

自分が知らない人にこれが読まれている。そこまではいいとして、たまたまリンクを たどって見つけた人が以前からこれを読んでいたらしいというのは モノが具体的なだけにかなり新鮮だ。新鮮を通り越して怖い。

今日また一つperlで賢くなった。 てっきり関数の中は別空間で外と同じ名前の変数を使っても無関係だと思っていたの だが、そんなことはなかったのだ。 関数の中の変数は最初に全部my付きで定義した方がよさそうである。 そして、絶対に関数の中では外の変数はいじらない。これを徹底しよう。

やったー1000行書いたぞー。今は、今だけはそれで喜ばせてください。

リファレンスを駆使してコードをコンパクトに。たまりませんなあ。 しかし、あまりやりすぎるとややこしくなるので、ほどほどに。

リファレンス入れても動いたー。うおー。感動ー。 URLだろうが数値だろうが文字列だろうが同じループでソートできるー。 ただ比較にいちいち関数呼んでるので遅い。演算子の多重定義とかいうのができたら いいのかもしれないがよくわからんし面倒なので却下だ。 C++だったら「URL型」とかいう型を勝手に作ったりして、型に応じて 比較の仕方を変えるような演算子が作れるのだろうが。 ジェネリックプログラミングという奴の意味がおぼろげにわかったような気がする。

中国語。数の数え方むずい。105の時は、「1百ゼロ5」という感じなのだが、 2005の時には「2千ゼロ5」という感じになってゼロが一個省略される。 2050じゃないのがミソだ。 加えて150は「1百5」という感じに「十」が省略され得る。 105じゃないところがミソだ。というか、絶対間違える。 しかも2の読み方がそれが最高桁かそうでないかで変わるらしい。 どういうこっちゃねん。 もっともドイツ語の2けた数字もかなり変だし(たとえば21は「1と20」)、 フランス語に至っては20進法の名残り(80は「4つの20」)がえんえんと残っている。 日本語の数の数え方はけっこう便利な部類なのかもしれない。

HTML

しかし、この段落アンカー、誰も指摘してない(と思う)欠点があるんです。段落アン カーとしてある要素の中味が、アンダーバーだとか星マークだとか、全て同じ文字列な ので Another HTML-lint でボロボロ、と言うよりも、読み上げブラウザの事が考慮され ていないのでアクセシビリティがボロボロ、と言う点が。まあ、そんな事は気にしてい ないのでしょうけどね。

  このような意見を見つけた。そう言われればそうだ。 理想的には話題ごとにタイトルをつけてアンカーにするのが良い。 もしそれが面倒ならば話題境界を検知しててきとうなタイトル (「24日の話題4」とかでもいいから)をつけて、それをアンカーにすればとりあえず 問題はない。 ただ、問題は話題境界をどう定めるかだ。話題をDIVで囲んでその中にPが あるようにしようと思ったこともあったが、 どうでもいい一行ネタとかをわざわざDIVで囲まねばならないのは けっこう面倒である。加えて、そのどうでもいい一行ネタにわざわざタイトルを つけるのはアホらしいではないか。しかし、たいがいそのどうでもいい一行ネタも ツッコミを期待しているのであるからして、アンカーは欲しいわけである。 こうなると作者としては視覚的にさほど目立たないものをアンカーにすることになる。 記号をアンカーにしてるのはそう考えれば理にかなっているわけだ。 別に記号なんか入れないでその一行を丸々アンカーにしてしまう手もあるが、 そうすると他へ飛ぶアンカーと区別がつかなくなる。

  さて、しかし目の見えない人が どうやってアンカーを辿るかを想像してみれば、やはりアンカーになっている文字列 をキーにするしかない。 「1(アンカー文字列1)、2(アンカー文字列2)…のどれを選びますか?」 みたいに聞かれるんだろうたぶん。そうするとうちのは「1_,2_,3_」 となって読めやしない。よしんば文字にして読めたにしても何が何だかわからないので 選びようがない。だから「ここ」とか「あそこ」という文字列をアンカーにしたのでは 同じように不便なのである。飛び先の内容がわかる文字列にしなければならない。 そう考えていけばなるほどオレのサイトは邪悪すぎる。

  関係ないが、HTML文書はよくあるプログラム言語みたいな入れ子構造にはなってない。 普通はH1だろうがH4だろうがmain関数(BODYの直下)にあるわけで、 章の中に節があって云々ということを文法として表現はしていない。 全体としては入れ子が根本にあるにもかかわらず、HXだけは別なのである。 もしやるならHXのかわりに、 <DIV title=見出し>とかやるとtitleアトリビュートの値が見出しになって、 DIVの入れ子レベルに応じて見栄えが変わるようにしたりするとか、 Hというエレメントに統一してそれが何段階目のDIVにあるかでH1からH6までの役割を 勝手に割りふるということになるはずだ。 そうなるとDIVではないそういう構造レベルを表すエレメントが別にできただろう。 それなら話題境界が云々とか言って悩むことはなかったはずだし、 H1の次にH4があるのはおかしい とか言って怒る人もいなかっただろう。 明らかにH1からH6とかいって番号をつけるようなのはHTMLの思想を考えれば 浮いている。 perlスクリプトを駆使して勝手にそういう文法の言語で 書いて変換してもいいのだが、さてどうしたものか。 ちょいと考えてみよう。目の見えない人に考慮してないと言われるのは やはり辛いものがある。

2001年4月29日

道場。感動。気持ちいい。脇でもちあげて、腰背で飛ばす。 飛ぶ飛ぶ。前でも後ろでも同じ威力です。 ついでに、冥想とか浄化とかについてとか、格闘技業界裏話とか、 誰も信じないすごい話とか。拳法はオレに驚くほど多くのものをくれた。 そして、できることならばこれからももっともらいたい。

そういえばIBMの帰りに面接と一緒になった人となぜかソフマップにご一緒した。 「機械マニアな女性は本当にいたんだ!」と感動したりして、楽しかった。 情報学研究科の制御系の方で、発泡スチロール製の30センチくらいのヘリコプターを 自立制御で飛ばす研究をしておられるらしい。

ジャンクを一通りみて別れた後、オレは例によってそれの売り場へ。 京都店にもとらハがそろっていた。買ってこなかったオレをなじってください。 ついでに、いちょうの舞う頃2の中古が大阪よりも700円も安く(1980)であったのだが、 やはり買ってこなかった。WEB日記で話題になったタイトルがあったら一個 くらい買ってくるかと思って行ったのだが、一つもなかったあたりさみしい。 なにしろ近頃ネタになるものをまるでやっていない。KeyやらLeafの次回作には 別に期待していないしもうファンとは言い難いので、 できればそろそろ開拓したいのである。 しかし、あの手のものは特定のクリエイターのファンになるというのも なかなかむつかしいかもしれない。なぜなら、たいがいの人は1、 2作で 才能を使い果たしてしまうからである。センスはあるが経験のない若い少女漫画家 に良く似ているかもしれない。

世の中には「答えを誰かが既に知っている問題」と 「答えがあるのは確かくさいがまだ誰も知らない問題」と 「たぶん一通りの答えがない問題」の3種類がある。 ガンパレのAIやクレイジータクシーの客の法則性を知るのは一番目の範疇で、 これを「クイズ」と呼ぼう。次に科学のたいがいは二番目の範疇で、やはりそれは 「科学」と呼べばいい。そして三番目は「哲学」である。 なお、ここでの分類名は現実の学問の名前とは無関係なので注意してほしい。 これで何を言いたいのかというと、 ゲームの持つおもしろさにはこの一番目の「クイズ」要素が大きな地位を占めている のではないかということだ。短期的に頭を使うことで仮説が立てられかつその答えを 確認できるというのは、知を無理なく行使できる範囲で行使できるという意味で とても魅力的だ。複数の人間が同じテーマを考えることで競争や協力 の楽しさも生まれる。この特徴は科学や哲学には薄いものだ。 科学は答えを出すことが最大の目的なので二番目以降に考えた人に価値などないし、 哲学は答えを確認できない上に時と場合によって いくらでも答えの表現形式が変わる。そういうものを楽しんで行える人間というのは どうしても限られるわけで、万人が楽しめる知の使い方はやはり「クイズ」 となろう。

ゲーム的なゲームにおける楽しさはかなりの部分が上達にある。 うまくなるので楽しいのである。うまくなるという言葉はこの場合多少広くて、 隠されたアイテムの場所を知るのも上達だし、ハンドル操作が絶妙になるのも上達 だし、タクシーの客の法則を知るのもまた上達だ。 最近この楽しみに価値を感じなくなったのが、オレがゲーム離れしている原因だろう。 「そんな限定された能力鍛えてもうれしくねえ」というのが正直なところである。 だから、タクシーは良く出来ていてどれくらい製作者が執念を込めたのかが わかれば満足であるし、ガンパレもAI系の限界が見えたところでまあいいか ということになる。こうなるとドラクエなどネタのため以外の理由で できるはずもない。一番目の知を扱うならばせめてその問題を提供する側に回り たいのだ。

だからギャルゲー漬け。詭弁ですか。しかし、そういう心理でギャルゲー漬けな 人はそこそこおられると思います。WEB日記を読む限りそう感じるのですが。

文化はなまもので賞味期限は数年であるが、数十年経つと干物になって また食べられるようになる場合もある。 ただし独特の臭いを放つので、それに耐えられる 玄人だけしか賞味できない。さて、新鮮な物しか食わんというスタンスもあるし、 敢えて干物にしてから食う方がいいというスタンスもあろうが、 干物にならず腐ったものを食い続けるというのはあまりいい顔をされない。 そして、腐らず干物になることは、相当に稀なのである。

ハードウェアの値段が下落する様を見るといつも唖然とする。 しかし使ってる時間のほとんどがエディタ(emacs)、 残りのさらにほとんどがブラウザ(w3m)という状態で何が必要だと言うのだろう。 ゲームをやっている時間もそこそこはあるが、 そのうちほとんどは二次元それゲーであるし、ガンパレは今十分に動くのである。 500MHzあって遅いゲームは5GHzあっても遅いに決まっている。

サイトにリンク集があることは多いが、日記リンクに慣れ親しんだせいで そういうリンクをまるで使わなくなった。リンクもまたコンテンツでありつまりは 作品なのだが、多くの場合リンクはそういう論理とは別の論理によって構築されて いるため、全く知らない人の役には立ちにくいし興味も引かない。

トップページへのリンクは多くの場合役立たずである。なぜなら、 ただ文脈もなくリンク集からトップページに貼ってあっても、 よほどヒマでない限り行く理由がないからだ。 やはり文章中での引用の方がずっと意味がある。 もしそれで飛び先がおもしろければトップも見るし、 そこのサイトを継続的に見ようという気にもなるのである。 段落アンカーはその目的でも良い。

というわけで、 日記鯖を紹介しておく。 人類の知的活動をもっとつなげよう。

アクセス解析をどうにかしました。今週は何人、先週は何人みたいなことも できます。加えて新しい順や回数が多い順に並べ換えることもできるようにしました。 ちょっと試してやろうという方は申し出てください。

鳥山仁氏のサイト。 他んところ読んだらメチャクチャ怖かった。何が怖いって、 エロ小説やらエロゲにしかないと思ってたような世界がマジであるっぽいことが プンプンするのが怖い。リンク集もちょっと見てみたが、怖いサイトがいっぱ いだ。とにかく妙に紳士的な雰囲気なのが余計に怖い。

理性の怖さが身にしみる。正しいと思ったら何があろうがおかまいなしだ。 理性は程度の差こそあれ感情の支配下にあり、 常に感情の望むことを正当化しようとする。 どうにかして「ただまんま見る」という境地に近づきたい。 そのためには頭から目的とか善悪とかを一度消さねばならんのである。

アクセス解析で 引っかかったやけに便利な漫研リンク集。 うちの漫研人の掲示板、日記が網羅されている。 誰が作ったのかは不明だが使わせていただこう。 どうも一日一回ここからのアクセスがあるようだ。

気合いの入った方を見つけた。「言うならやれ」とよく言うが、 ここまで徹底しておられる方はそうそういない。 ただ私は所詮フヌケであるからして、HTMLを徹底的に正しくしようとも 思わないし、言文一致が行きすぎた今の風潮もさほど悪いとは思わない。 オレの文体はWEB日記にしては固めかもしれないが、 これは美意識の問題であって主義主張があるものではないからだ。 しかし、こういう調子で普段しゃべっているわけではない以上、 オレも話し言葉と書き言葉には多少の違いがあって然るべきだと 思っているのかもしれない。いや、おそらくそうだろう。 たまに行きすぎてくだけた文章を読むとどうしても違和感を感じるからである。

ところで、<BLOCKQUOTE cite="どっかのURL">という形式の 引用を見たのは初めてだ。解釈してくれるブラウザ(UAと言うべきか) が存在するかどうかも知らない。しかし、referrerのログに残っている以上 おそらくIEがその機能を持っているのだろう。

気合の入った人をもう一人。 この人の意見にはすばらしく同意できる。その上絵がうまい。

上のお二方のサイトを読んでいると とてつもないhtmlの使い方をしている人々が山といるというのが 実感できる。特にtableとimgの使い方のエゲツナサには目を覆わんばかりだ。 オレもエネルゲンのサイトなどでかなり激しいことをしてはいるが、 w3m(テキストブラウザ)で辛くて見られないような状態にはしていない。 ああいうのばかりを見ていればhtml原理主義を叫びたくもなるが、 しかしいくら叫んだ所で彼等には決して届かないのも事実である。 大学に行く人間が増えると共に平均学力レベルが落ちているのは周知の事実だが、 WEBも全く同じであろう。使う人間が増えればそういうとてつもなさは増すに 決まっているのである。人間は自分が興味を持ったことにしか労力を払わないし、 例え興味があることであっても得をしないことや損を避けられること以外には やはり労力を使わない。サイトを見られない人間が数パーセント出るくらいは 多くの人にとって損ではないのである。 そして、ブラウザは商品であるからして、その多くの人に合わせて機能を高めてゆく。 そうしてますますメチャクチャなhtmlがまかり通るようになるのである。 圧倒的な熱力学的必然であり、これを改善するのは生半可ではない。 この状況の中でオレにできることはわずかだ。ゼロではないが、わずかである。

このように、個体の数が増すことによってあるパラメータの平均値が低下し、 かつその数のために少数の個体がどうがんばってもどうにもならない状態に陥ることを 「悪世末法」と言う。オレが決めた。わかりやすく言えば「世も末」である。 本来は道徳の崩壊を予見した坊主が残した言葉であるらしいが、 オレはいろんなことが同じ構造を持っているような気がしてならない。

数は無力感を演出する。自分が何をしても、あるいはしなくても大勢には影響が ないと思う。そしてやっかいなことにこれは事実である。 しかし、事実である一方でみなが そう思えば確実に全体としてレベルが下がる。 この一つのことだけをとってみても人が多いということが絶望的であることが わかるだろう。この国の学生が致命的にやる気がないのは自分を見ても よくわかることだ。そして、オレがやる気ないことなどこの国にとっては些細なこと である。にも関わらずオレのような学生がたくさんいることはこの国にとって脅威 なのだ。

熱力学的絶望感。最近のオレの流行。

2001年4月28日

アニ同の上映会に参加してみた。 ガンダムWの劇場版とスプリガン。 ガンダムの方は説教くさくて青臭くて話はイヤなのだが、 爆発が尋常でなく美しかったので良し。あれほどの美しく心地良い爆発は 久しぶりである。やはり爆発はサンライズであろう。 また、デザインに関して羽が云々言う人もいるようだが、 「これはGガンダムなのだ」と考えれば特に気になるわけでもない。 むしろそこまでやったことに敬意を表したい。というわけで、まあおもしろかった。 次のスプリガンだが、それはもう動く。とにかく動く。 効果音も良い。しかし、動きっぱなしでいまひとつメリハリがない。 いや、考えてみればそんなことはないのだが、たぶんそれはセリフとか内容とか そんなものがないからだろう。動いてるシーンは動いているからセリフも内容も 語れないし、かといって動かないシーンはただ動かないだけで絵以外のものは 何も語られていない。絵をすごがればいいのだが、オレはそういう人種では ないようだ。ついでに内容の方も妙なダサさを感じる。90年代SFがもうダサく 見えてしまう体になってしまったようだ。むしろ80年代はダサさを通りこして ネタになっているのでかえって耐えられる気がする。

ところで、青臭いのが大好きと公言しているオレが ガンダムWの話を好きになれないのは矛盾ではないのかと 思われるかもしれないが、これは一応説明できる。 ガンダムWは人間がよくわからんのだ。 キャラのコンセプトはよくわかるが、それは製作者側の意図であって 奴等本体がどういう奴等なのかはいまひとつわからない。 というか、あまりに典型の枠を出ていない。だから、何をやっても感動できないし、 何を言っても説得力がない。なんと言うか、全てが記号なのだ。 「平和は勝ちとるものだ」という記号、「もう人は殺したくないんだ」という記号。 一応エピソードもはさんでそう思う過程や理由を描いているにも関わらず、 記号にしか思えないのである。キャラの属性がお約束なのはネタであって 気にもならないし、モビルスーツがすごすぎなのも別にネタである。 ネタはネタと認識された瞬間から物の根本の評価からは外されるので 一切マイナスにならなくなる。戦争してる理由がよくわからんとか、 まあそのへんもいい。ただ、キャラがよくわからんのが辛いのだ。 ひょっとしたらテレビ版を全部見たら評価が変わるのかもしれないが、 どうにもそういう気はしない。

思えばもののけ姫も同様の評価だった。キャラを気にいらないと 結局全体を好きにはなれない体質である。動くんだが。

その後とある方の家にお邪魔してみた。コンピュータがたくさん、 ビデオだかLDだかDVDだかがたくさん。漫画もたくさん。 というわけで、圧巻であった。と、そこで花右京なるものを 見せて頂いたのだが、ごめんなさいどうでもいいです。 見ようという覚悟があれば見られるかもしれないが、 見てもなんらネタ以外のものになる気がしないのが悲しい。

自分の立つ位置というのが見えてきた気がする。 言うならば、どれくらいどの方面でオタクなのかということだ。 ギャル度、ネタ度、教養度、云々。そんなパラメータを設定していくと 自分の位置というものが明確に見えてくる。最近ちょびっツだのはぴどだの ラブひなだのを読んでギャルづいてはいるが、 オレはたぶんそういうのはかなりどうでもいい人種である。 エロゲ、ギャルゲの類もたぶんそういうところを好んで見ているわけではない。 オレはキャラ萌えの男だと思っていたが、 それはどうも一般的にキャラ萌えだギャル萌えだ 言われているものからは何かが違っているようだ。 おそらく、オレはいい奴萌えであって、ギャル萌えではないのだろう。 つまり、オレは近年のギャル萌え文化人から見れば「一般人」 の範疇を出ないのである。

オタクとは知識ではない。決意だ。 アンテナ線をつなぐ決意をしてみた。これで話題についていけるぞ。

漫画のキャラとして十分魅力的な方が現実にはいる。それもよくよく話してそうだ というのではない。見かけプラスアルファ(話し方、声等々)程度の状態でだ。 漫画やアニメのキャラもそう荒唐無稽でもないのだという気がしてくる。 ゆりチックな奴もいるし。

IBM一次面接。いろいろ困ったが、困っただけでいつも通り ベラベラしゃべってしまった。ダメかもしれんな。

2001年4月27日

今日は研究室の墓参り。墓といっても人のではない。酵母だ。 日頃散々殺してるので、たまには供養しようという会である。 そういえばレーザ発振器にお守りをつけてる研究室もあった。 科学者が意外と迷信深い人種なのは広く知られるところである。

2001年4月26日

WEBをさらってて こんなのを見つけた。たぶん日が経てばなくなると思うが、 ここのガンパレの話である。 この人はガンパレを「がんばればなんでもできる幻想」として好きになれないらしい。 言われてみたらそういう感じだ。言うならばゲーム的なゲームである。 たぶんこの人はそういうのを卒業してしまった人なのだろう。 考えてみればオレがガンパレを好きなのも「設計萌え」あるいは「数学萌え」 にすぎないところがあり、 さらに言うと「作った人萌え」なので、実はガンパレそのものがそれほど好きかは 疑わしい。 ゲーム的ゲームができなくなったというのはオレも共感できるところである。

現実が辛いのならフィクションも辛い方がいいだろうか。 フィクションは現実のある側面をよりくっきりと見せてくれるという 役割もあり、それは言うならばフィクションを現実の一部として見る見方だ。 この見方を重視するなら確かにそうなる気がする。 しかし、辛さは現実の一部にすぎず、辛いものとか報われないものが 常に現実を写しているとは限らない。たまに報われるし、 勇気は現実にあるし、愛もあると近似して良い。 多くの人は運悪くそれらに現実で出会えないから そういうものを扱ったフィクションを青臭い幻想として遠ざけるのではないか。 「人間なんて汚ねえんだよ」と常々思っていて、たまたまそれに賛意を表すような 作品に出逢って「やっぱりそうだよな」と自分の意見の正しさを確認するような 心理が存在してはいないだろうか。もちろんオレも 「人間はもっと美しいはずだ」と常々思っていて、たまたまそれに賛意を表す ような作品に出逢って「やっぱりそうだよな」と思うのだから同じであるが、 同じだということに気づいているならばオレを現実逃避と言って 次元が下であると言うことはできない。

フィクションを現実逃避として嫌う人は、 フィクションが現実逃避だから嫌いなのではなく、 フィクションに現実逃避を結びつけたから嫌いなのだ ということに気づいているだろうか。 袈裟が憎いのは袈裟が坊主だからではなく、 袈裟に坊主を結びつけたからである。 結びついたが最後、まともに考えることもできず感情スイッチはオンになる。 考えてみればあらゆるものは範囲を持ち、点ではない。 椅子にも椅子である範囲でいろいろなものがある。 にも関わらず椅子全てをある一つの理由によって嫌いになるということが どうして可能なのであろうか。 好きでも嫌いでもいいが、そういう感情を 種類に対して持つことは本来不可能なはずである。 それが可能に見せているのが言葉というものの魔力だ。 確かにそれができなくては人は考えることはできない。 しかし、それが同時に理性に限界を定めてもいるのである。 たとえばオレが「美しくないものは嫌い」と言うのは 美しくないものをひとくくりにして中を見ていないという意味で オレの理性を制限している。この「〜〜は嫌い」の「〜〜」が具体的になれば なるだけ問答無用さが増すわけで、 できるだけ〜〜はあいまいにしておくのが良かろう。 完全に捨てることは絶対にできないのだから。

昨日日本橋でとらハ1のパッケージを見たのを思い出した。 らぶちゃ箱は山と積んであった。 買ってこれなかった私の勇気のなさを責めてください。 で、とらハ1のパッケージを見て衝撃を受けたのだ。とりあえずピンク。 脳内麻薬でっぱなし。ストーリー紹介の文章なんか マジでブったまげるくらいどうでも良かった。完全にダメなギャルゲー にしか見えない出来。何かありそうな予感が全くしない。 確かに中身もそのまんまだと言われればそうなのだが、 恐るべき天然さよ。 そういや「いちょうの舞う頃2」が激安で置いてあったんだが買ってこれなかった 私の勇気のなさを責めてください。あれ、評判聞きません。 少なくとも絵はうまくなってなかったです。せっかく変な絵なのにもったいない。

いい子ちゃんブリブリですなオレ。悪い子になりたがるのも良い子になりたがるのも 等しくウソですが、まあ後者の方がマシでしょうということで後者やってます。

研究室の人にいらん教科書をあげた。彼女は医学部の博士に進むらしく、 それであれば相当な知識が必要だろう。 ついでに山口美由紀のタッジーマッジーも貸した。 それにしてもこの汚い部屋にいささかも臆することがないあたり強者である。 次来る時にはきれいな部屋をお見せしようなどと言ってみたりして 部屋を片づける動機を一つ増やしてみた。

これか。これなのか。そうかわかったぞ。オレは理解した。記念して書きとめる。

もりりん氏やらに貸してる(実験台とも言う) 旧型アクセス解析がロックミスでバタバタ初期化される中、 新型はなんの問題もなく動いている。やっぱり設計は偉大です。 自動作成機能ができしだいそっちも使えるようにしますんで、 しばらく初期化地獄の中でのたうっててください。

よくある掲示板のようにディレクトリごとにCGIを置くんでなくて、 クエリーでどの番号かを指定して一つの CGIにアクセスする方式に変えました。 加えてアクセス解析の自動作成機能ができました。 削除もできます。人柱になりたい方は 私までメールを送ってください。折り返しやり方を送ります。 別にここに公開してもいいんですが、下手くそさがバレバレで恥ずかしいので とりあえず身内だけ。なお、?以下をブっ飛ばすことによって検索サイト で何と入れて来たのかがわからないと言われたので、 指定したサイトのみ?以下を残すことにしました。さしあたって思いつく 検索サイトをリストに入れておきました。 まだ実験してませんが、たぶん大丈夫でしょう。たぶん。 そのうち別ファイルにこういう設定を書いてWEBブラウザで設定できるようにします。 なお、根性があったらついでにカウンタもやる予定。 こんな機能足せ!!という意見があったら言ってください。たぶんたいがいできます。 なお、最適化をまだしてないのでかなり無駄な処理してます。たぶん遅いです。 アクセスがあんまり来ると死んでしまうでしょう。 せっかく作ってるんだし、このへんもどうにかしようと思います。 デバッグ用のprint文をケズればそれだけでも速くなるでしょうが、 固定長レコードにすれば全部書き直す必要がなくなってかなり速くなるでしょう。 たかがアクセス解析にそこまでやる必要なんてない気もしますが、 まあ、それは練習ということで。ついでに言えばCにしたらもっと速いんでしょうが それは怖いので却下です。

2001年4月25日

<とらハ本参加予定者へ>
後で(今日中)正式にページ作りますが、とらハ本のページ、キャラ、右左申告 は5/7となりました。締切は5/17としておきます。題名はギリギリでOKです。 全員1ページ以上「なんか書いたページ」を作品とは別につけてください。 いわゆるフリートークとかですが、それも作品ですんでそのへん お間違いのないよう。ところで、人少ないんで誰か参加しませんか? 超激歓迎です。

HTTPでサバに何かを送りつけたり受けとるプログラムがいるのだが、 やっぱ コレ(rfc2616)を読まねばならんのだろうか。 とあるサイトのフォームに遺伝子配列を入れては出力を保存する、 ということを6000回ほど繰り返すことが必要になったのである。 ローカルにまとめて配列とプログラムを持ってきて自力でやれば そんな手間もないように思うかもしれないが、 それは単なる計算をするだけでなくデータベースから情報を抜いてくるので そうもいかない。データベースごと落とせればいいんだがやらせてくれないし、 なによりデータベースエントリは常に更新されるので、 常に最新に保たないと意味がないのである。 cvsupみたいにして酵母全遺伝子データベースの同期をとれると とてもうれしいのだが、残念ながらそういう手段は提供していないらしく、 一つづつ入力しては出力させてこっちで溜めこみ たまに更新してないかこれまた全部入力して確認するという激頭悪い方法しかない。 もちろんその手のソフトは売っているのだが、当然数メガ円するわけだ。 そして使う人が少ないので出来が悪く、当然windowsでしか使えない。 開発期間と金くれたらがんばって作るんだがなあ。 もちろんなくても作らねばならんのだが。

GUIがいるGUIがいる言っていたが、考えたらいいものがあるじゃないか。 htmlとjavascriptとCGI。これだよこれ。 LANを前提とすれば多少ムチャ(メガ級)な入出力も大丈夫だろう。 これならperlオンリーで行ける。早速今まで作ったフィルタ群をCGI化しよう。

よう考えたら、金もらって作ったソフトをタダでバラまくなんていう ご無体が許されてるのは学者だけか。IE作ってる人もそれくさいが、 ちょっと何か違うかもしれない。

セガ見に行ってきます。 しかし、午後と午前どっちに申しこんだか忘れたので 午前に間に合うように行きます。9:30大阪。現在5時です。 背広着て実験してから行くとしましょう。

午後でした。が、入れてくれました。ところで、 セガはかなりヤバかったらしい。会社を分けてリスクを分散させた上で ソフトに特化する戦略のようだ。壁に「確実に利潤を上げる体質にする」 などとデカデカと貼ってあるあたり相当にヤバいのだろう。 しかし、説明会そのものはなかなかおもしろかった。 サウンド担当の人が一人来てベラベラしゃべっただけなのだが、 それが少々変わりすぎていた。いきなり「一曲歌います」である。 今度出る音ゲーの曲らしく、彼が自分で歌って入れているらしい。 もちろん作曲も彼だ。だが、あれはどうなのだろう。 きっとマイクが普通のマイクだったからああ聴こえただけなのだ。 曲もまあ、たぶん、そんな感じなのだろう。ということで納得する。 話の終わりにも「もう一曲」入ったりして、どうしようかと思った。 その後知能テストと性格診断をやらされて終わり。 知能テストの方はIBMに比べるとアホみたいに 簡単だったので大した問題ではなかったが、 問題は性格診断だ。バカ正直に書いてしまった。どう考えてもチームワーク を重視する勤勉な人間には見えない回答だ。それで落とすんだろうか。 まあ落ちてもいいのは確かなのだが。

帰りに日本橋。二重影というゲームがすごいらしいのでンフマップを探したが なかった。

アニ同の人々とメシをご一緒してみた。平日からOBが来るあたりあの団体の 深みを感じる。金曜は10人やそこらは当たり前のように来るという話なので、 いずれ行ってみることにしよう。

とらハ本詳細ページ。 表紙から行けます。誰か参加しませんか。

2001年4月24日

アクセス解析を完全に書き直した。 分けられるだけ関数に分け、拡張も考えて余韻を残してある。 そしてとりあえず以前やっていたことができるところまで回復した。 ふう。

村枝賢一「RED」(講談社)。かなり悪い意味でサンデー臭かったこの人だが、 一体いつのまにこんなに漫画がうまくなったのだろう。 技術だけではない。今までベッタリと貼りついていたどうでも良さが まるでない。ノリノリなのだ。話がどうとか言うのはともかくとして、 熱い。そして、かっこいい。画面構成が驚くほどうまくなっている。 よほど映画を見た証拠だろう。ストーリー漫画を書こうという者は よほどのセンスがない限り映画を知らねばならないのではないだろうか。

エントリーシートを2通出した。たぶんもうない。 さっさと決まってしまえ。だんだんダレてきたのか かなり日記そのままなエントリーシートだが、まあ大丈夫だろう。 大丈夫でなかったとて大して痛いわけでもない。

あらゆるかけ算は九九なしではできません。足し算を繰り返しても 結果は出ますが、それはかけ算してないですから足し算です。 という詭弁で言い訳してみます。

せっかくリンクを検出できるようになったのでツッコミ返しをしてみました。 あとはソート表示、自動新規作成機能、削除機能、画像式カウンタ提供機能を つけます。そこまでやってバグ出なかったら身内に公開することにしましょう。

ところで、ちゃんと設計してからやると、ちゃんと動くまではともかく一回 動いた後はバグが出ません。まるで出ません。すごいです。設計。 あとはカッコ閉じ忘れ、セミコロン忘れ、=と==、の3つの間違いを 賢く探してくれる奴がいれば動くまでの時間も大幅に短縮されそうな感じ。

2001年4月23日

4回生に教える第1号。もう面倒くさくなってるあたりオレは 人に物を教えるのは向いてない。できるだけ早く自分のテーマに 移行させよう。教えろと言われれば教えるが、教えろと言われないのに 教えるのは不可能だ。

オレは人に物を教えた経験がほとんどない。 加えて人に物を教わった経験も乏しい。 つまり、無理だ。人の話を聞かぬ人間が人に話を聞かせることができようか。

超アルファシステム行きてー。経験欲しー。 しかし、この2年が無駄だとは言わない。生物学と情報学の接点を見ることができたし、 研究というものを見ることができた。過去形にするには早いが。

「押しつけはいけない」という意見がすでに 押しつけであることに気づくのはかなりむつかしいことだろう。 あらゆる意見は度合の差こそあれ押しつけである。 提案と強制の違いは度合でしかない。説得力、背景となる状況、口調、 その他によって押しつけがましさは異なるにしても、全ては同じ直線上にある。 だからこそ提案も意見も気を配らねばならないのだ。 誰かをバカにしたり「ねばならない」を冗談に聞こえない場所で使ったり するとどんな妥当な意見でも押しつけがましいものに変えてしまう。 人は内容よりも雰囲気で納得するのである。

悪意は人間性の証明だ。 理性は悪意の下僕になっているうちは人間性を損うことはないが、 理性が悪意をもその対象とした時、悪意とともに人間性もまた損われる。 人間性と言うとなんだが、要するにかわいげだ。 萌えキャラであるためには理性が度を越していてはいけないわけで、 ある程度穴がないとダメなのである。芝村舞を見よ。

イタリア語講座。「イルパラッツォ」と聞こえてハっとしたが、 時すでに遅し。意味はわからない。頼む日本語の意味をもう一回言ってくれ。 イルが男性の定冠詞ということだけはわかるのだが、「パラッツォ」はなんだ。 ところで、このイタリア人らしき人の日本語すげえ自然。 加えて声がけっこうかわいいぞ。 しかし、イタリア語をしゃべっているとあんまりかわいくない。 妙におばさんくさい。なぜだ。なぜなのだ。 ここで一つ実験を思いつきました。 誰か萌え声な声優にイタリア語をしゃべらせてみないものでしょうか。

イタリア語。男性、女性、中性、複数。定冠詞に加えて形容詞まで変わりやがる。 メッチャ面倒くせえ。彼等にとってはそれだけ性とか数が問題になるわけで、 それは日本人が兄貴と弟の違いを重視することと同じで文化の問題ではあるのだが、 どうにもわからんもんはわからん。そんなに数が大切か。そんなに性が大切か。 しかし、彼等にとっては大切なのである。わからんでもとりあえずそういうもんだ と思っておくしかないことがままあるものだ。

中国語。「これ」と「あれ」しかねえらしい。「それ」と「これ」は一緒。 相手がもってようが自分が持ってないと関係ねえ。これも文化だ。 しかし「文化」で思考停止するのもつまらん。どういう背景でそういうことに なっているのかはけっこう気になる。

モーツァルト交響曲40番第一楽章。やっぱすげえわ。 いい音楽とかいい曲とかいうレベルを超えている。 この色気。この物語性。この意外性。この様式美。 わかれ。オレはヴァイオリンを10年以上やったくせに ロクにクラシックを聞いていないので、 誰かにおすすめのものをドバドバ教えてもらってここらで聴きまくる必要がある。

君が代。誰よこの伴奏つけた奴。ついでに誰よこのオーケストレーションした奴。 すげえぞこれ。かっちょええ。なお、純粋に編曲の話しかしていないので 思想がどうとかいう不粋なことでツッコまないようお願いする。

やっぱ青空だって。ただし一瞬。

ラジオの流れ通りの日記ですな。後半。

芝村演説感想文

  ガンパレのアルファシステム。 ここの「あたらしいげーむのはなし」(右下の方)を読んだ。 すげえと思う一方で、ここまで考えねばならないものかと思った。 しかし、これが「まだ就職までにしばらく時間がある人間向け」 の文章であることに気付いて、この文章の動機のようなものが見えてきた。 おそらくこれは演説なのだ。そう思わなければこの文章の大仰さは説明がつかない。 むつかしげな言葉や、哲学・論理学、そして学位の必要性といったものは おそらく筆者が「絶対に必要なものとして」信じていることではあるまい。 ただ、その程度の脅しにもひるまずマジでそれらを勉強した人間であれば 必要とされる程度の能力は持つだろうという推論によるのではないだろうか。 ゲームという軽いイメージを勘違いした愚か者をどうにかしたいというのも 大きかろう。 実際論理学や哲学を学位を取るまでに大学で勉強しなくても それらの考え方を身につけることは十分に可能であり、 おそらく彼等はそれを自分の身で知っているはずである。 ただ、他の人間の多くがそうではないという事実に直面するに及んで、 なんらかのメッセージを贈ろうと考えたのではないだろうか。

  学問によって得られるものは、知識と考え方である。 そして、まず学ぶべきは考え方であり、専門にやらんのであれば 考え方だけで十分だ。異なる学問は異なる考え方を教えてくれる。 人はすでにもっている考え方を組み合わせて新しい考え方をあみ出すのだから、 考え方をできるだけ多くコレクションすることで新しい考え方をあみ出す 確率は高くなるのである。知識はデータにすぎず、そんなもんは必要になったら 調べれば良い。そして、考え方はその学問から独立したものであることを 知らねばならない。だから、哲学にはこの考え方、政治にはこの考え方… となってしまうのは致命的な間違いである。愚かさの源と言っていい。 今の教育制度はちゃんと複数の学科を勉強せざるを得ないようになっており その点は問題ないのだが、残念ながら重要なのが考え方であってそれを 結びつけることが必要なのだということはまるで教えない。 ただ知識をコレクションするだけでは話にもならない。 学校の勉強が役に立たないのは 役に立たせることができない本人に責任があり、 また同時に役に立たせる方法を教えられない教師の責任でもあるのである。 アルファシステムがあのようなメッセージを送らねばならなかった背景には そのことが横たわっているのだろう。

  ところで、少々話を厳密にしてみよう。 実は知識と考え方は全く違うものではない。 両方を「情報」とくくった時に、抽象度が 高いものが考え方で低いものが知識ということにすぎない。 そもそも「このタイプ問題の解き方」という情報が考え方であるか知識であるかは 微妙であろう。 情報は多くあつまるとそこからより抽象度の高い情報が生まれる。 知識は集まって考え方を生み出すのである。 あらゆるかけ算は九九の知識がなければ決してできないではないか。 だから、知識を軽視するのもまた間違っているのである。 どんな学問でも最初に学ぶのは知識であって、これを多く学ぶうちに 考え方が現れてくるのはよくわかるだろう。 だから、本当に大切なのは得た情報を狭い引き出しに分けて 入れないことだ。全部を巨大なプールにいっしょくたに入れる、 その能力だ。むしろ態度と言った方が近い。哲学も物理学もギャルゲーも新聞も 社会学も化学もマンガもスポーツも、なんでもいいがとにかく全部 一緒にブチこむのだ。

  分別とは分けることである。これは、分けるほどわかりやすくなり、 制御しやすくなるからだ。しかし、何かを思いつくこと、つまり 俗にセンスと呼ばれるものはこれとは逆の働きが必要である。 なんでもくっつけてゴッチャまぜにして、自分でも何が出てくるかわからんように することだ。「これは文系」「これが哲学」「これが数学」「これがギャルゲ」。 分ければ分けるだけ確実に発想は乏しくなる。そして、全てに普遍的な 極めて抽象度の高い情報、つまり「根本的な考え方」 というものに到達できなくなる。センスは生まれつきのものではなく、 生まれてからの態度によって生じるものだ。後天的なものだ。 誰もが持てるはずなのに間違った態度によってそれをわざと失っているのである。 オレもそうだ。狭い考えに閉じこもってセンスがないことは生まれつきのせいに していた。間違いだ。オレにセンスがないのは、オレの愚かさに原因がある。 カントは「そいつがバカなのはそいつ自身に責任がある」というアツいセリフを 残しているが、これは頭が良くなりたいのならば無邪気に信じて良いだろう。 これは言い換えれば「誰もが自分の自由意志によって頭を良くできるのだ」 というとても楽天的で勇気づけられる言葉なのである。 こんなところで冷めて悲観的になるより、無邪気に信じてがんばった方が 絶対幸せになれるはずだ。

  と書いてみて、自分ツッコミをしておく。「社会的な成果も上げてない たかが学生ごときに言えるセリフではない」。 「貴様はそんなに偉いのか」と言われれば返す言葉もない。

2001年4月22日

のじり会話。

鳥山仁という人のサイト(張り直しました)。 いわゆるエロ小説家であるらしいが、そっちの世界はよく知らない。 しかし、たぶんこの人は変なエロ小説家だろうということだけはわかる。 エロという言葉から聞くイメージにそぐわないほど教養がありすぎるのだ。 SMの話をしているはずなのに、かなりすごそうな社会学が展開されている。 ギャルゲーの話をしていて哲学くさくなるのと同じような現象だろう。 今までのオレの感覚では、複数ジャンルがよく混ざる人ほど頭がいい。 そして一つのジャンルをよく分ける人ほど頭がいい。 この人はその両方を見事にやっている。

クソッ、楽しそうなことを! 我がサークルのボス、良月です。ちなみにnextから飛ぶと…。

芝村系キャラはいい。そして作る側の視点に立てば比較的楽に いい感じになるタイプだろう。 ポロっとかわいくするタイミングさえ間違わなければある水準まではかわいくなる。 つまり何を言いたいかと言うと、芝村対ラフィールは芝村の勝ちだ。 もう一人最近芝村系がいた気がするが、ああ、神奈か。それはいい。 さて、あの系統は「えらそうに言ってるけどオレが見てやらないと ダメなんだから」という保護欲というか支配欲というかそんなのを かきたてるのがいいのだが、 舞の場合は「ヒーロー」という言葉にも現れているように あんまりアホウではなくちゃんと人をひっぱれる。 だがしかし、特定の方面ではやはりアホウで、 「ああ、こいつダメだよ」と思うのである。納豆嫌いというあたりでもう 「ああ、やっぱり!」と思うではないか。しかも「納豆は人類最後の食糧(うろおぼえ)」 とかいう言い方をするあたりが良い。

ところで舞と言えばカノン舞だ。芝村系ではないが、 オレ内部でイメージが何故かリンクしているので何かと比べられるのである。 というわけで比べると、カノン舞の方がズバ抜けて人間を逸脱している。 かわいいもクソもねえ。ムチャクチャだ。納豆も食える。 だがこいつの場合は納豆を食えるのがいい。なぜか。 イメージに合わないからである。ガンパレ舞が納豆を食えないのは驚きがない。 イメージ的に食えない方が絵になるからだ。それはカノン舞も同じなのだが、 こいつは敢えて食うのである。

たくさんのキャラに萌えることに道義上の問題はないのだが、 現実に複数の人に萌えることの悪いイメージのせいか キャラ萌えも一人であるほど硬派であるという雰囲気がある。 確かに硬派である。「〜〜への愛を忘れたのか!!」という ラム親衛隊的な美学がそこにはある。だが、人は忘れるものであり、 加えて時間が経てば新しい萌えキャラが登場してくるのだ。 「同時には一人しか萌えていない」という言い訳は現実よりも 成り立ちやすいと言えよう。

作品としては、「退かぬ!媚びぬ!顧みぬ!」の姿勢が強いほどおもしろくなる。 どこかで頭の悪さを感じないものはおもしろくないのである。 例えば2つ前の段落の最後に「いや、所詮キャラ萌えなんですけどね」 などとつけ加えたりするのは言い訳がましくて最悪であろう。 しかし、それを通じてひととなりを知ろうという場合には 「だからなんだ?あんたそんなに舞が好きか?」 ということになって怖いかもしれない。 基本的に退かず、媚びず、顧みない人はかなり怖いのだ。 まして理性的であればあるほど恐くなる。 「うおおおおおお、ラフィール萌えーーーー」
とか書いてあれば、まあネタかと思うが、 あまり理を尽してキャラへの愛を語っていたりすると 「ヤバい人だ!!」ということになるのである。 しかし普通作品は作品であるから一発目に読む時に作者のことなど考える奴は いない。つまり別に自分がどう見えるかなど考えなくていい。 しかし、日記はそこが微妙なのだ。 作品かどうかは人によって違うしその時その時でも違うが、 なにかしら「マジでヤバい人とは思われたくない」 というベクトルが働かざるを得ない。かといって自分ツッコミを入れすぎれば おもしろさが減る。どれくらい顧みないのがちょうどいいかは想定する読者 によっても違うし、話題によっても違う。自分をよく知っている人が相手であれば 多少走ったものを書いてもネタかと思われるし、逆に全然知らず会う予定もない 人が対象なら走りに走った文章にして怖がられても、別におもしろがられれば良い ということになる。オレがどう思われているのかが不安でたまらないので こんなことを書いてみた。読む人が増えるとそういうのが気になるらしい。 別に会いもせん人にどう思われようとかまわないはずなのだが、 本気でそう思えるほどオレは芝村度が高くないのである。

2001年4月21日

長月さとし氏 によるとらハ本表紙が完成。 トップに飾る。うおーエネルゲンくさくねー。 それもそのはず、この本はエネルゲン名義で出るにもかかわらず エネルゲンの企画ではないのです。 京都ローカル企画で、長月さとし氏の発案によります。 さあ、どうなることやら。

javascript。ついでにJAVA。勉強なんかせんでいい気がしてきた。 何ができるかさえ知ってれば、なんかの時に 「この手がある」と思えるだろう。

NTTコミュニケーションズに書類が通った。 しかし、その日はちょうどIBMの面接で、 「確かに了承致しました」とメールを出して しまったのである。仕方ないのでさようならNTT。

なぜモジラは35MBもメモリを食べるのでしょう。いくらK6とはいえ 500MHzもあるのになぜこんなに重いのでしょう。メモリ64MBではもじらはダメ ダメなのですね。netscape4が恐しく速く見えます。

今日のプログラム練習-カゼで他に何もできないの-

  アクセス解析。どのhtmlから呼ばれたかをチェックして、 得体の知れない奴から呼ばれてログが混乱するのを防いだ。 が、サバ側に誰から呼ばれるべきなのかの情報を書かねばならないのが面倒くさい。 最初に作成する時に それを入力できるように改造する必要がある。 というわけで、作成を自動化するスクリプトを書こう。 あとはtelnetで入れる奴なら誰でも ログをいじれるというヤバげな問題をどうにかせねば。

  早々に怪しいアクセスが!!当然ハネられている。しかし謎だ。 CGI変数のHTTP_REFERERで見ているのだが、これ間違いってあるんだろうか。 そのアクセス元と思われるファイルには 別のアクセス解析CGIへのリンクがうちと同じやり方で 入っていたのだが、まかり間違ってもうちにアクセスするとは思えない。

  困ったときは等号を検索してみよう。絶対ifの近くにあってちゃぶ台返し。

  変数に知らんうちに正規表現のメタ文字が混ざってて、 それが原因でいろいろと変なことが起きていた。 くそ、エンコードしちゃえ。

  ちゃんと動いてるっぽい。一晩置いてバグがないか見てみよう。

  -->の前に//を置くというテクニックによってnetscapeからも ログが残るようになった。やったと思って見てみると、 ローカルのブックマークから行った時にも 律義にローカルのパスを残してくれている。 netscapeってのはひょっとしてバカなのではないだろうか。

2001年4月20日

ナムコ行ってきます。ゲーム会社がどんなもんなのか見てきましょう。

ちなみ経由で来た人がたくさんいるらしいが、 ログに残った場所にはうちへのリンクはない。 不思議だ。とりあえずjavascript本を買うことに決定。 どうせだからjavaもやるか。流行りの技術はおさえておかねば。

4回生が配属されてきた。 テニスな人とか、柔道な人とか、スキューバダイビングな人とか、 それはもう太陽の人種だ。オレのような影の人種は一人もいない。 自己紹介で言うことが「趣味は音楽観賞」とか「読書」とかそんな感じで、 「おお、これが普通の人か!」とのけぞりそうだった。 オレの配下に一人来るのだが、果たしてうまくやっていけるのだろうかと不安。

ナムコ。普通。IBMに比べるとあまりにやる気ない説明会だった。 しかし何より辛かったのは質疑応答で、次から次へと痛い質問が続く。 経営状態はどんなですか、とか クビになる基準はどうですか、とか とにかくそんな感じだ。他にも企画の人しか来てないのに えんえん技術系の話題をしゃべる奴、 とあるゲームがおもしろくなかったとか勝手なことをぬかす奴等、 藤島康介を起用したのは趣味ですか等々のどうでもいい質問をする奴等々、 それはもう痛い時間だった。答える方も大変だろう。 人事の人はそのへんプロなのでまだマシだったが、 開発の人は明らかに不機嫌そうだった。 やはりゲーム会社を志望する奴には勘違いした奴が 多いという話は本当だったのだ。オレもそうならんように気をつけねば。

ジャリどもが修学旅行、群れをなす。

javascript本にはロクなものがないらしい。 いくら探してもカラフルで絵付きの初心者本ばかりだ。 ということは、おそらくjavascriptというのは わざわざ本にするほどの物体ではないということだろう。 加えてnetscapeとIEで別物というイヤな事実もわかった。 ECMA-262 という共通規格が一応あるようなので、それをとりあえず読んでみる。

IBM筆記試験通った。速いって。 面接が。面接が。あ、交通費出る。電車賃+バス代で 1500円くらいなのだが。

階段登ってて不意にわかった。 ウォームギアだ。電車の中で実験してみたが、 いける。 自転車で一番軽いギアにして思い切りこぎ始めると 一発目ん時に体にすごい加速度がかかるものだが、 あれだ。そのためには長い筋肉でなくて太い筋肉があればいい。 そして筋肉を仮想的に太くする方法が、ウォームギアだ。らせんだらせんだ言うのは これか。

プログラムに数字は2種類しかないと思おう。1とたくさんだ。そう思っておけば 汎用性のないもんを作らんで済む気がする。

  感覚である色と、物理現象である光の間にはどんな関係が あるのだろうか。光のパラメータは波長と振幅の二つしかなく二次元だが、 色はRGBとか言える以上最低でも三次元ある。ということは、目のセンサーは 3種類以上あるということだ。3種類のセンサーの敏感さをF(x)で表せば、 F1(x)が第一タイプで、F2(x)が第二タイプ…となる。xは波長だ。 仮にある波長の光の明るさ(見えやすさ)をyとすれば、y=F1(x)+F2(x)+F3(x)となる だろうが、 F(x)が平坦でない関数であればyの値はxによって違うはずで、 であれば見えにくい波長というのは当然あることになる。 さて、緑のものは緑の波長の光を出しているのだが 実は順序が逆で、緑に見える波長をkとした時に 3つの数字の組(F1(k),F2(k),F3(k))に緑という感覚を当てているわけだ。 そしてその明るさはおそらくF1(k)+F2(k)+F3(k)であろう。 で、オレが知りたいのは3つ関数F(x)の形である。 それがわかればどの波長が見えやすいかがわかるし、 頭の中で色というのがなんなのかがだいたいわかるだろう。 ロドプシン(光を電気に変えるタンパク質)の研究とか読めばいいんだろうか。

  探したら とある眼鏡サイトにそれ関係のことが書いてあった。 しかもわかりやすくておもしろい。 ちなみに3つのセンサの吸収ピークの波長は それぞれ、420nm(青)、531nm(緑)、558nm(赤)。見事にRGBである。 ただ、実は人によってこのピークの位置がだいぶ変わるらしい。 加えておもしろかったのは、 鳥は紫センサを持っているために色が4次元だという話である。 色が4次元ということは、各色8ビットで32ビットカラーがフルに迫ってくるわけだ。 なお、犬やら猫は2次元しかないので かなり淋しい視覚であるらしい。

  元々4種類あったものが3種類になったのは哺乳類の祖先が夜行性であったかららしい。 暗いところでは色など大していらないわけだ。そのために一回センサが2種類まで 減ったのだが、たまたま類人猿は一種類を取り戻して3種類になったのである。 さて、遺伝子というのはけっこうよく壊れるが、そう簡単に丸ごとは失われない。 つまり、人間にも紫センサはあるはずなのである。ただ壊れているだけだ。 おそらくタンパク本体以外の配線もまんま残っているはずであり、 そのタンパクさえ直せば4次元の豊かな感覚が6500万年ぶりに 帰ってくることになるだろう。また、全然違う波長に吸収ピークがある センサを新しく入れてしまうこともおそらく可能だ。 紫外線や赤外線が見える生物なんてのも作れないとは限らない。 事実植物には見えているのだ。ああ、遺伝子工学万歳。 しかし実際にそういう人を作って「どんなですか?」と 聞くのは技術的じゃないところの問題で 無理そうな気はする。犬に聞けるなら今鳥に聞けば済むことなのだ。

今日の立ち読みの成果〜WEB技術〜

  この手のもので できることはとりあえず入力と出力の範囲でだいたい決まる。 javascriptの場合 入力になるのは元HTMLの中に書かれた引数、 いくつかの特別な変数(参照元URL等)、ユーザ入力情報(マウス位置等も)、そして サバ側ファイルだけだ。そして出力は画面である。 CGIにおいて入力はHTMLファイル、ユーザ入力、サバ側にあるファイル、 そしていくつかの特別な変数であり、 出力は新しく転送されるファイルとサバ側ファイルとなる。 つまり、javascriptだけにできることというのは、 ユーザの入力に対して再転送なしで反応することと javascriptにしかない変数を送ることで、 CGIにだけできることというのはサバ側のファイルに書きこむことと CGIにしかない変数を送ることとなる。 また、JAVAというのもあって、アプレット(ブラウザで動くやつ)として使う時には 入力がユーザ入力と 元HTMLとサバ側ファイルで、出力は画面だ。しかしjavascriptよりも ややこしいことができるので、 入出力の制限の範囲内でできるならこっちの方がいいっぽい。 また、それとは別の次元でcookieというのがあるが、 これは本来アクセスできない見る側のディスクに 厳しい条件つきながらアクセスできるようにする抜け道のようなものらしい。 たとえば自分があるサイトを何回見たかとかを自分のディスクに保存しておく。 パスワードとかもだ。cookieはCGIからもjavascriptからも使えるようだ。 JAVAでどうかは知らない。そんな感じ。とりあえず、javascriptは大して 役に立つもんではないが、これでしかできんこともいくらかあるので知っといて 損はないという感じか。しかし、オレとしてはなんでもサバ側でやってしまうのが一番 いいような気はする。なにせ見る方はいろんなもんを使っているので その検証をするなんてイヤなのである。

2001年4月19日

日記を整理した。時期ごとにフォーマットが微妙に違っていたので かなり面倒くさかったが、これでめでたく統一され、 自分で段落アンカーをブチこむ必要もなくなり、めでたしめでたし。

都築氏がわかってやっているのはよくわかる。インタビューを読んでも 彼がそういう善良なものを書こうとして書いているのは明らかだ。 おそらく赤松氏にしてもそうだろう。しかし、オレは書こうと思うくらいで あんなに善良なものは書けないのではないかと思う。 意識の表層で理性が働いていたとしても、作品にあふれている 善良さは作者の意識しない内側から沸いて出たものだと信じたいのだ。 そういうことなので、オレは敢えて天然と呼びたいのである。 最初に基本方針を狙って定めたにしても、実際に中身を書いている時には 勝手に沸いてくるものを叩きつけているのだと信じたい。 なんというか、いい人になりたさのようなものが感じられると、 オレ内部ではそれはいい人になってしまうのだ。

カゼ悪化。メシを炊いたので栄養が迫る。

NHKラジオの君が代の後にかかるオルゴール風の曲が、なぜか一瞬 青空(Air)に聞こえる。たぶん音色とかイメージとかで 頭の中で連結するだけだと思うが、かなりビビった。

うちのipアドレスを勝手に上げるようにした。 ここに研究室からtelnetすればうちに忘れたデータもとれるし、 サイトの更新もできる。sannetはsannet以外からのアクセスによるサイト更新を 許可していなからこんな面倒なマネをしなければならない。

アクセスログとりスクリプト改良。改良というよりバグとりだ。 原因不明のログの撹乱があったので、とりあえずロック機構を入れてみた。 しかし応急処置なのでロックしてる間は捨てられる。 次に末尾の?と#以降を省いて同じものとし、 加えてindex.htmlやindex.htmも省いた。便利便利。 あとはソート機能でもつけるか。合計を計算してカウンタがわりにしたり、 いっそ画像をカウンタにしたりすると余計にそれくさい。 見にきた人のIPアドレスとかブラウザ情報も溜めて統計とってもいいし。 しかし、自分で使えりゃいいもんにそんなことやってどうすんだ。

ツッコミされたことを知れるのはかなりうれしい。こんな楽しいなら そらみんなやるだろう。オレも反応する時には元にリンクするようにしないと 卑怯だな。

ダイジェスト作成スクリプトに1000日分やらせたら無限ループした。 そらそうだ。元が足りんなんて条件は考えてない。 しかし、600日はちゃんと作れたのでオレだけ使う分にはよかろう。 2MBもあった。絶対読めない。

そうか、わかったぞ。あいつ「薔薇のために」のゆりチックなんだ。

TOEIC申しこみすべりこみセーフ。6600円は高いが、ネタのためと思えば高くはない。 5/27までにどれだけ英語脳が回復するか。

昨日のが眠い状態で書いてて意味不明なので書き直そう。 要物理化学の基礎知識。図でも書けばいいんだが面倒なのでパスだ。

物理化学万歳

  行動を化学反応に置きかえると、面倒くささが活性化エネルギーで、 達成したうれしさが安定化エネルギーになる。 自分の持つエネルギーの量が多ければ高い活性化エネルギーも 乗り超えてより安定化する方へ行くが、自分が持つエネルギーが少ないと 活性化エネルギーの山を超えられずに、結局安定化できない。 たとえば「寝る」というのは活性化エネルギーは低いものの(面倒くさくはないものの) ほとんど安定化エネルギーがなく(達成感がなく)、 よってよほど自分のエネルギーが低くない(やる気がなくない) 限り選択されない行動になるわけだ。 より面倒な事に慣れるというのは、つまり自分の持つエネルギー量が 増すことである。より高い活性化エネルギーの山を超えてより大きな安定化(満足) を得ることができるようになる。こういう視点で言えば、 逃避というのはしようと思っている、あるいは しないとマズい行動の活性化エネルギーが自分の持つエネルギーよりも大きいために 他の行動に逃げてしまうことだ。化学では活性化エネルギーが低い方に とりあえず行くことを動力学的といい、活性化エネルギーが多少高くても 安定化エネルギーが低い方に行くことを熱力学的という。 動力学的というのは人間の行動で言えば逃避行動チックという意味であり、 熱力学的というのはがんばって云々ということになるわけだ。

  さて、ある反応に 2つの経路があって、片方が活性化エネルギーが高く安定化エネルギーが大きい反応、 もう片方が活性化エネルギーが低く安定化エネルギーが小さい反応であるとしよう。 前者に行かせたければ温度を上げてエネルギーを増やしてやれば活性化エネルギーの 山を超えて熱力学的に安定な方へ行くし、後者に行かせたければ温度を下げて エネルギーを減らしてやれば活性化エネルギーの山を超えにくいので動力学的に 反応が推移する。 化学の基本だが驚くほど人間にあてはまる考え方であろう。 とこのように化学の言葉をやる気、面倒くささ、達成感の 3つのパラメータに置きかえるとそれっぽいのだ。

  なお、触媒という考え方も通用する。触媒とは活性化エネルギーを 下げてくれるもののことであり、人間の行動で言えば面倒くささを下げてくれるもの だろう。これはたとえば一緒にやる仲間であり、機会である。 また、安定化エネルギーを変化させるものもある。たとえば報酬が増えれば 安定化エネルギーは増えるし、「これをやれば成長する」といった考えもまた 安定化エネルギーを大きくする。面倒くさいことをやるにはこの両方を行えばいい。 化学反応と違って人は心の持ちようだけで活性化エネルギーや安定化エネルギーを 変化させることができるのだから、そういうテクニックを駆使すれば なんとはなしにやる気になったりもするかもしれない。

  また、少々ネガティブなテクニックもある。複数の反応経路がある時にどうしても ある経路を選びたい時、他の経路の活性化エネルギーを上げてしまうのだ。 たとえば、明日がレポートの提出日でしかし面倒くさくドラクエをやりたいとする。 レポートとドラクエという2つの反応においてレポートへ行く確率を上げるためには ドラクエをやりにくくすればいい。たとえば、「やらないと卒業できない」とか 言って恐怖感を植えつける。成功すればドラクエの活性化エネルギーは上がり、 結果選択されにくくなるだろう。また、安定化エネルギーを小さくする方法もある。 たとえば「ドラクエなんてやったって意味ねえじゃん」と思うと ドラクエの安定化エネルギーは小さくなり、 結果ドラクエに行く確率が下がるのである。

  ところで一つ考察がなされていないパラメータがある。 それは粒子のエネルギーたる「やる気」だ。 これそのものを上げるにはどうすればいいのか。 エネルギーが高ければ活性化エネルギーもクソもなく一番安定化する、 つまり一番成果の大きい行動を常に選択するのである。 集団であれば対応する学問は統計熱力学であり、 やる気は温度に対応する。 温度を上げれば粒子のエネルギーの平均値は上がり、結果いろいろやるようになる わけだ。これは社会で言えば教育にあたる。教育とは社会の 温度を上げることだと言えるだろう。 しかし、今問題なのは個々の粒子のエネルギーだ。 このあたりはやる気をエネルギーと同様の量とみなせるのかどうかとか、 いろいろ問題があるのでかなりむつかしい。 やる気のある人がやる気のない人にやる気を削がれる現象は広く知られているが、 その際にやる気のない人がやる気を得るかどうかはいまひとつ不明だ。 また、やる気のある人同士が集まって余計に大きなやる気を 発揮する現象もある。どうもやる気量保存則は成り立たないようで、 とするとエネルギーと同様に考えるのは無茶だろう。 何かおもしろい理屈はないものだろうか。

  ふと気づいたんだが、オレこういうことやるからバカにされるんじゃないだろうか。

2001年4月18日

データにできるものはどうしても商売がむつかしい。 なにしろコピーされてしまうのだ。 コピーするのにかかる労力をできるだけデカくする努力(認証やらなにやら) をすれば商売が成り立つようにはできるし、 事実それで成功している企業はあるのだが、どうも話がややこしくていかん。 やっぱ触れるものが一番だ。コンテンツとかえらそうな言葉で言ってるが、 コンテンツは食えんのである。もちろん、コンテンツを作る人が食ってけんのでは コンテンツを作る人がいなくなってしまうという意見はそこそこ正しいが、 別に金とらんでもコンテンツを作る人はいるわけで、社会からコンテンツが 消えてなくなるわけではないだろう。 なお、これは極論なので注意すること。 自分がそういうので金を稼ぐ人間だったらこんなことは言わない。 人が自分の利益に反する意見を持つことはまれなのだ。

加えて、データの商売がむつかしいのはタダのものに常に脅かされることだ。 タダでいいものがあると、どうしても人々はデータはタダだという 気がしてきてしまう。そして、タダでないことを憎むようになる。 作るのががどんだけしんどいかなんておかまいなしにだ。 だが、タダで手に入る手段があるのに金を払わねばならないことを 理不尽と思う人間の心理はどうなるものでもないのである。 この点触れるものはその心配がない。 触れるものは人件費以外のコストが必ずかかるわけで、なんぼなんでも趣味で 食い物をバラまく奴はそういないし、仮にやったとしても全世界に行きわたる ことはないからである。いくらでも増やせて、実体を伴わないもの。 コンテンツ。むつかしい時代になったものよ。

NHKラジオ。アナウンサーによる自己紹介についてのスピーチ。 その中で日記の話が出て、「事実をとにかく細かく記録するのが良い」 と言っていた。それも表現を工夫しながらだ。そうすることで 人と話す時のネタが豊富にストックされ、コミュニケーションがうまく 行くのだと言う。人と話すにしても自己紹介するにしても、 過剰な演出はかえって薄っぺらい話になってしまう。 事実を事実のまま、それも自分に特有の事実をありのまま語れば 自然と重みが出てくるというのである。確かにそうだ。 静かな説得力こそが日本人の美徳であろう。 また、日記を書くことによって安心して物を忘れられるというのも ハっとするセリフだった。偶然かかってて聞いただけだが、いい話だった。

よく考えたらIBMの作文は日記まんまなわけで、役に立ったと言っていいだろう。 受かっていればだが。

行動は化学反応に似ている。やるのに必要な労力をちょっと大きくしてやれば やる人はドカンと減るのだ。たとえばコピーガード。破られる運命にあるにしても、 その破る作業の面倒くささを思えばかなりやる人は減るわけで、つまり効果は大きい。 まして最近は世の中が便利になったために人の持つ行動エネルギーが どんどん減っている。つまり、ちょっと面倒くさいだけでやらなくなる人が とても多い。オレとかはモロだ。日記に直リンクしないと読む気がしないというのは 末期症状もいいところであろう。

ところで、逃避行動としてやっている行動は、逃避として成立できる範囲で 面倒くさい必要がある。逃避はすぐ終わってしまっては逃避ではないのである。 たとえばドラクエのレベル上げなんてのは時間を食う面倒な作業なのだが、 他にしたくないことがある時には絶好の逃避になる。 ガンパレもやり方がわかってしまった後は作業に近くなり、 逃避したい時しかやらなくなった。日記を書くのも実験をしたくない時には絶好の 逃避になる。しかし、逃避行動の本質は労力や時間でなくあくまで とある行動に関する思考を停止することにある。 たとえば実験したくないから日記を書くというのは、 日記を書くのに頭は使うとしても、実験という次元では頭を使わない。 ドラクエのレベル上げはより思考停止レベルが高いだろう。 寝るというのは最強の思考停止であり、最大の逃避だが、 「なんとなく何かやっていたい」という人間の心理からすると最後の手段である。 つまり、逃避行動には「ある程度の労力がかかり、 短期的に何らかの結果が見えること」と 「やるのにかかる労力が少ないこと」という矛盾した性質が求められるのである。 所詮これが相対的なもので、逃避したい行動よりも労力がかからなければいいのだから これは不思議ではあるまい。何か意味のあることをやっているという実感を、 本来すべきことよりも楽な方法で得ることが、逃避の本質なのである。 なお、より面倒くさいことを逃避にできるようにしていくと尊敬されるのでお得だ。 たとえば逃避でプログラムが組めるようになったりするとすごくいいと思う。 そのためにはやるべきことがプログラムより面倒である必要があり、 そりゃ相当大変なのだろうが。

よし決めた。日記の整理をやるぞ。就職活動を理由に実験しなくても 文句言われない今がチャンス。段落アンカーつけて、別コラムを別ファイル にもして目次自動生成して、各ファイル記名して、まあそんなもんか。 perl様があれば一日でできるはず。それと、アクセス解析のあれを 使いやすくしよう。日付けつけるとか、同じとこからのは同じ行にまとめるとか。 人にもらったまま使っていたのでは恥ずかしすぎる。

酒ダメだ。もう体が耐えられない。冷蔵庫にいつぞや学会でもらったビールがあって ジャマだから飲んじまおうと思ったのだが、 ちょっと飲んだだけでなんか気分悪くなった。 アカン。体が、体が。

リンク元記録スクリプトの改造をした。 同じのは二度書かないようにして、どこから何回来て、 一番新しいのはいつかを表示するようにした。 自分しか使わないのでこれで良し。次は日記をどうにかしよう。

はぴど

  今木さんのはぴど感想を読んで、 いっぺいはオレとは違うところを見てイヤがっていたらしいということが なんとなくわかった。 話とか、ネタとか、そういうところを見れば確かにはぴどは悲惨だ。 しかし、オレのように「おーおまえええやっちゃ」ということくらいしか見てないと そんなことはまるで気にならんわけで、普通の漫画になってしまうのである。 らぶひなも、まあ分析すれば売り物として出来がいいだのなんだの言えるが、 結局オレの読み方では「うおーおまえらええやっちゃー、かわいー」の一言で 尽きるわけで、それは漫画がどうとかまるで見ていないといえば見ていないのである。 オレ内部でのあれ系漫画の位置付けはそんなもんであり、 それ以上でもそれ以下でもない。ああいうのが好きだが、評価はしていない。 評価はしていないが、好きだ。そういう感じである。 オレは漫画(に限らないが)を読む時に第一にキャラを見る。キャラしか見ていない。 もしキャラ以外の要素もズバ抜けていれば、読んでいるうちに気づいて 他の要素も愛でる。最近ではうしおととらがいい例だ。 もしキャラが全然好きになれなければ、 他の要素を見てみておもしろいかどうかを考える。 YAWARAとかMONSTERとかの浦沢直樹作品が全てこれである。 そして、キャラがいい奴ということ以外に気付かない場合は、 単純にキャラがいい奴な漫画としてオレの中で完結してしまうのだ。 らぶひなもはぴどもとらハ(漫画じゃないが)も 度合こそ違えど基本的にはこの範疇にあり、 この3つを比べた場合とらハとラブひなの距離ははぴどとラブひなの距離 に比べてかなり大きい。とらハは何やら何かがズバ抜け気味なので 批評もするし考察もするが、ラブひなやはぴどはそうでもないので いっしょくたなのである。いや、キャラに互換性はないのでモノとしては 独立なのだが分類としてはいっしょくた。だって、ラブひなもはぴども明らかに 天然だし。作者たぶんいい人だし。 そういうことで説明になっているだろうか、いっぺい。

  ラブひなとか、はぴどとか、とらハとか、こういう天然なもん見てると イデオンの「人は単純であらねばならぬ」という台詞が頭で反響する。 人はエゴを克服することはむつかしい。ならば 下手に理性の力を発揮してそれをエゴのために行使してしまうよりは、 より単純で素朴な感性のみで生きる方がずっとマシだということではないだろうか。 コスモやらカーシャの勝手さはとんでもないが、あいつらはバカだということに 救いがある。もったいぶった理屈をつけつつも結局は理性をエゴのためにしか 行使できなかった「大人」な奴等に比べればずっと幸せだし、 周りにとっても迷惑ではなかった。そういうことだ。 人は単純でいい。自然法や道徳に素直に従って喜び、怒ればいい。 そしてオレが思うに、 そこを出発点として知恵をつけていくことも不可能ではないのだ。 オレはかなりとらハにそれを感じた。あいつらは単純ではあるが、 バカではないのである。あいつらこそ「良き知的生命」だ。

2001年4月17日

イラストロジックを解くプログラムをどうやって作るかの話で盛り上がる。 イラストロジックというものがなんだか知らなかったのだが、 話を聞いていると昔yunoでやらされたアレであることがわかった。 にしても人間の判断をプログラムにやらせるのは大変だ。 将棋も囲碁も麻雀も強いのを作るのはしんどかろう。 「こうならこう」というのをたくさん入れていく方式がいいのか、 根本的な学習アルゴリズムをブチこんで山と学習させた方がいいのか。 前者は強さはともかくちゃんと動くものがすぐ作れるし、だんだん強くしてはいける。 ただしそれで人間の名人に勝てる保証はない。 一方後者はうまく作ればそのうち人間を超えそうな気もするが、 根本アルゴリズムが完全にできていなければいつまでたってもまともな手は打てない。 これは頭のいい人が挑戦する分野だ。

「happy world!」。はぴど。いっぺいはムカついて読めねえと言っていたが、 ふふんこの程度ラブひな系にすぎん。むしろ読みやすいし問題なし。 もちろんあざといにはあざといが、まあこの程度ならよかろ。

IBMの試験や情報処理の試験を受けてみて、 自分の頭の回転はあまりよくないということが身にしみた。 よって回転が遅くてもどうにかなる手法をあみ出して速い人に対抗する しかないのだが、それをやる時間がなかったりやりようがなかったりすると どうしようもないのである。 とある連中はその頭の回転がオレよりはるかに速く、 そのうえに手抜きをする技をあみ出すのもうまい。 勝てるものか。教養と経験と努力を最大に投入しても互格になるかどうか。

「企業戦士YAMAZAKI」(2-5)。なぜか研究室のオレの机の横に置いてあった。 なかなかおもしろい。毎回見事なまでに同じパターンでマンネリもいいところ なのだが、毎回違う企画が出てくるのがいいのだ。 どれくらい調べて書いてるか知らないがけっこうそれっぽい。 ところで、これアニメがあるらしい。

知り合いのサイトを久しぶりに見たらガンパレ化していた。 どこもガンパレ。そんなに流行っとったんかいこれ。 戦略・戦術ゲームとしておもしろいだけではこうなるわけはないし、 かといってただのキャラ萌えゲーでもこうはならない。 加えてキャラ萌え要素が男女不問というのが強烈である。 複数のウリが高度にまとまっているゲームというのは強いものだ。

カゼひきました。一時に比べて明らかに生命力が減ってます。 食い物日記を書けないほどロクでもないものばかり食っているというのが 第一要因でしょうが、あらゆるそういう原因は「気力がねえ」 という根本原因につながる気がします。気力があればメシも炊きますし、 ちゃんと早く起きますし、ヨガも拳法もやるわけで、 それは健康にならざるを得ないわけです。 EOとか言う人が死んだのは、ようはやる気なさすぎて 何もせんかったからではないでしょうか。 というわけで、まずはメシを炊くことにします。メシを炊くことは全ての 始まりであり、全てですから。

2001年4月16日

メタルギアソリッド2の体験版を見せてもらった。 ムービーバリバリで「ひょっとしてこれゲーム?」って感じなのだが、 ゲームは異様にかっこいい。雑誌とか窓とか、どうでもいいものを撃てたりする あたりこだわりが感じられるし、敵に見つかったら事実上死あるのみというのが たまらない。ロッカーや段ボールに隠れて敵をやりすごす時のスリルといったら もう。コナミというと今ひとつ最近パっとしないイメージがあったのだが、 あんなものを作っていたのだな。

イデオンと言えば「XYX」。たとえば、
「なぜ今まで教えてくれなかったんだ。なぜ今まで。」
「貴様らが責任をとってくれるのか!貴様らが!」
この独特の言い回しが誰の仕業なのかは知らないが、なにやらいい。

なんとなく役人もいいかもなと思った。ただし役人は役人でも 国直属の役人だ。試験がむつかしいというのがまたいい。 法律とか時事とかまるで興味のないものを 勉強せねばならんのが辛いのだが、たまには嫌なものも勉強しないと 頭が偏ってしまう。新しい分野は必ずネタをもたらしてくれるものなのだから、 落ちても受かっても損はない。

やっぱり、オレなんでもいいんだな。やっぱり。

こんなことでまともな社会人になれるんだろうか。こんなことで。

思ったよりいろんなアンテナに捕捉されていたんですね。思ったより。

ダメだ使えすぎるXYX。ところで、「捕捉してくれてありがとう」というのは なんか変ですが、やっぱりうれしいのでありがとうございますです。 すでに7つのアンテナからの捕捉を確認しました。 この文化にだんだん慣れてきた気がします。誰一人として顔も見たことないのに。 ああ、でもそのうち数人にはお会いするかもしれませんね。京大アニ同の方々、 その時はよろしくお願いします。

ソフ倫「http://www.sofurin.org/」。リンクフリーじゃないとわざわざ明記してある ので尊重してやることにした。ここの倫理規定を初めて読んだのだが、 おもしろすぎる。エロ描写以外にも道徳やらなにやらの規定があったのは 発見だったが、それ以上に実際に売るための障害にならないようにかなり 微妙な表現をしているのがおもしろい。線一本とかアホじゃないかと思うんだが 法律がからむとこういう滑稽なこともよく起こるので不思議はないかもしれない。

IBM筆記試験終了。ああ、疲れた。70分知能テストの後、30分作文、そして トドメが40分英語。出来ははっきり言って悪かった。 知能テストは3つあり、1個目は全部やって見直しを半分できるほど時間があまったが、 2個目は8割、3個目は6割程度だ。 1つ目は5×5の行列をネタにした頭の回転の速さを測るベンチマークで、 これは単なる作業。しかしこの年になっていまだ左右を間違いがちなオレのことなので そのあたりで間違いがある可能性がある。 2つ目は文字列の規則性を見切って次の文字を当てるもので簡単だったのだが、 どうにもアルファベットの順番を完全に覚えておらず規則性以前の問題でつまづいた。 特に逆順に連想することがまるでできず、いちいち前から考えてから戻っていた。 間にあうわけがない。「rの次sだったっけ、sの次v、いやtがあるか…」みたいな感じ。 数字にしてくれ頼む。 3つ目は算数の問題なのだが 問題が日本語の文章で書かれており、 それを数式に変換する回路の性能が足りないのかかなり辛かった。 というわけで、いまひとつダメそう。 そして作文はほとんどいつもの日記と同じ。 トドメの英語も全部解けず、落とすなら落とせオラという感じである。 結果は2週間で通知されるそうだ。落ちたら落ちたで「落ちたよ」と通知が来る そうなので、安心して待とう。

日記の攻撃度で機嫌がわかります。今日は5段階評価で2ってとこでしょうか。 下のを読み返してそう思いました。 自分の日記は自分を分析する上で貴重なデータです。 もちろん、他人の日記は他人を分析する上で貴重なデータなわけで、 日記というのはつまり人類を分析するのにかなり適したデータなわけです。 なんかいい感じな統計処理ができたらこれ研究課題になりそうな気もするんですが どうでしょう。 なにせデータは何万人分もあるのだし、しかも時系列で変化を追えるのです。

リンクフリー

  リンクフリーだろうがなんだろうが、 見る人がいるならばリンクは張られる運命にある。 見てほしくないなら作るなオラ、というのが正論だろう。 もちろん正論で済まない範囲というのはあって、あまり広く知られたくないが 技術がなくて認証とかができない場合というのは確かにある。 コメントアウトするなんてのも同じでバレれば見られるが、 確かにバレにくくはなるわけで効果は否定できないのだ。 しかし、わざわざリンクはダメと言うからには理由の一つくらいは書いてもらいたい。 頻繁に移動するので便宜を図るために特定ファイルにだけ張ってほしいとか、 正直にカウンタ回してほしいとか、まあなんでもいいから書いておいてくれると 「そんな理由なら知らん。オレは張る」と言えるのである。 赤信号は見えてるが車はいないしOK、という奴だ。 理由もクソもない状態では「知るか、オレは張る」ということになって一段階 何かが落ちる。それにしても、「リンクはこのファイルへ」とか「リンクは許可制」 とか言い出す人というのはリンクが何であるかをわかっていないのだろう。 リンクは文献参照情報にすぎない。クリックで行けるのとアドレス入力して行けるのは 手間以外の問題ではないのだ。アドレスを書くことを禁止しないのならば、 Aタグで跳ぶようにすることも禁止する意味がない。そして、アドレスを書くことを 禁止しますなどと書いたものは今まで見たことがないのである。 リンク元からどういう意味あいでリンクされているかを知りたいということはある だろうが、リンク元を知る方法は提供されている。案外その方法を知ったら リンクフリーにするようなサイトがかなりあるのかもしれない。

  また、リンクを張られることは絶対に防げない。それはアドレスそのものを知られない ようにする必要があり、そういうサイトはつまり存在しないのと同じだからである。 このご時世に秘密保持をするのは相当に大変なことなのだ。 これはデータが存在する段階でコピーされる運命にある プログラム類と状況はよく似ている。 もちろん違法コピー同様に取りしまることができないわけでもないが、 取りしまっても得をしないということを考えればその意味はかなりない。 それでもリンクを制限する人々の意図は一体どこにあるのか。

  と考えても、当然自分ではないのでわからない。 まあ、そういうことを言う人々はオレなどに理解できない よほど深遠な理由があるのだろう。 例えば「なんとなく」とか「みんなやってるし」とか言うのは 最も理解がむつかしく最も深遠な理由である。

2001年4月15日

基礎情報技術者試験。たぶん正答率8割くらいか。悪くても7割はとれてると思う。 どれくらいで合格なのかは謎なので何とも言えないが、まさか運転免許みたいに 9割ないとダメということはあるまい。 ただ午後の試験は若干怖い。ループの終了判定がxなのかx+1なのかx-1なのかを 書く問題が数問あり、どれか一つくらいは間違ってそうな気がするのだ。 今まで適当に作ってみて エラーしたら書き直すというどうしようもないマネをしていたので その報いであろう。あとはSQLという言語の知識がゼロだったのが痛かった。 本を読むとか、せめて一回くらいは過去問をやればそれが聞かれることが わかったはずなのだが、つい面倒なもんで何もしないまま受けてしまったのである。 せめて出題範囲くらい調べてから受けていればとかなり後悔した。 というわけで、問題文に数ヶ所あるSQL関係の例から文法規則を推定するという アホウなマネをしていたが、たぶんあの問題はダメだろう。 しかしまあ、あの程度のむつかしさでは ちゃんと勉強した人やその道の人にとってはさぞや簡単なことと思う。 たぶん持っていてもあまり自慢にならない資格なのではないか。

ところで、試験は楽しかった。センター試験を思い出して なつかしい雰囲気にひたれたし、ああいうふうに時間に追われて頭を使う機会は めずらしいので新鮮だ。知らないことを聞かれて必死にひねり出したり、 選択肢を見てどれがそれくさいかを推定する作業も久しぶりだ。 もちろん知識がつくのもおいしい。 もし受かっていたら秋にはこの上の奴を受けよう。 身内の情報学科とかそれ系のみなさん、一緒に受けにいこうぜ。ネタになるぞ。 まあこんな資格でどれくらいハクがつくのかは知らないが、 履歴書の資格の欄に書くものがあるというのは悪くない。 さて、次はTOEICだ。

まさひろ の日記より、
「極微真空電子工学専攻」。
私の頭の中でこれが「極真」という二文字に化けました。 カラテ撫子様のおかげです。 略称はもちろん「極真電工」に決まりですね。 まさひろ、ネタになるってのはそういう意味だよな。

ガンパレ。同人誌を作れと全身全霊で言っているかのような作品であるが、 やはり流行っているらしい。すでに流行っている市場に乗りこむのは 危険なものだが、これは商売ではないので危険もクソもない。 というわけで気が向いたら何か作ってみるのも悪くないかもしれん。

試しに日記ダイジェスト版に どこのリンクから飛んできたかわかるしかけをつけてみた。 明日あたり見てみよう。

2001年4月14日

おかしい。実験をしていないのに研究室で仕事をしていた。 その仕事とはコンピュータいじり。ネットワーク管理とか言う奴である。 やりかけたところまではおもしろかったが 今では個人のコンピュータの世話からプリンタの管理にまで話が広がり、 もはやコンピュータはオレに聞けという状態になってしまっている。 よくできる奴は仕事が増えると聞くが、 これはむしろ「よりできなくない奴・よりやらなくない奴に仕事が行く」という 感じだ。なにせオレも素人なのである。 それに私物のコンピュータで 「メーラー動かないんだが」とか言われたって困るではないか。 だが、もう「知るか」とは言えないのである。

プリンタにハードディスクをつける計画はメーカの製造中止によって あっさり頓挫した。どうもただのIDEくさいのだが、うまいこととりつける金具 を自作せねばならない上に保証外になるのでそこまではしたくない。 仕方ないので余っていたwin2k機をプリンタサーバにした。 ついでにunix用印刷サービスというかなりLPRくさいものがあったので インストール。これでLPRを受けつけるのかと思ってマックから やってみると、データを送るところまでは行くが送った後エラー。 マックは例によって何が悪いのか言わないのでどうしていいかわからない。 そもそも、そのLPRソフト(デスクトッププリンタ・ユーティリティ)に ヘルプがないってのは一体どういうことなのだ。 そのソフト自体よくわからんところに隠されていたし、 どう考えても使ってほしいようには思えない。 触れば触るほどマックが嫌いになっていく。 いいのかapple。もっといいところを見せてみろ。

アニ同の説明会に途中から顔を出してみた。濃い連中だった。 また行ってみよう。

エントリシート。てきとうなことをベラベラ書いているとなんか だんだんそんな気分になってくるから不思議だ。「こんなのに貢献したい」とか。 さしあたって第1弾は3つ。うち一つは清水に「受けてみたら?」と言われたという 以外に動機がないNTTコミュニケーションズ。就職活動をナメ切ってます。 なお、あとの2つは秘密だ。

どこぞで読んだことによると、エントリシートは「おもしろく」「他に似てない」 ことが大切だと言う。しかし、狙って外したギャグよろしくやりすぎは寒いので バランスが問題になるのも事実だ。さて、あまりとがってもアレなので 無難な経験を書こうと思ったのだが、困ったことにどうにも見当たらない。 イカしたエピソードの一つや二つあるだろうと思って探しても そのへんの「良いエントリシートの例」に出てくるような類のものが まるで見つからないのである。バランス良く論理的思考力・体力・やる気・ 協調性などをアピールするような都合のいいエピソードが欲しい。 頼むから誰かオレの過去に挿入してくれ。

「その他自由にPRしたいことを書いてください」。それ、困りすぎ。 面接で「最後になんか聞きたいこととか言いたいことありますか」と 聞かれるのもかなり困りそうだ。あと困るのが熱意。ないです。だって、ないんです。 つまらなくなく金が稼げれば良く、あわよくばそれがおもしろくて、 かつ人類に貢献している気がする職業なら最良、という程度の認識なので 熱意もクソもない。よって、「なぜこの企業なの?」とかいう質問は 天敵もいいところである。そして正直に言えない以上ウソをつくしかない。 しかし、えてしてウソはそらぞらしいものであり、バレる運命にある。 オレの倍生きたような人間にバレないウソをつくなんて不可能に決まっているのだ。 こうなれば、ウソであるかどうかはともかく、そのウソの内容で勝負するしかない。 将来性とか社会貢献とか言っていてはダメであり、 もっと意表をつくようなところを誉めねばならないのだ。 できれば体験に即したところで。「こうこうこんなことがあって、 その時この会社いいなあと思ったんですよ」みたいな。 「昔のaptivaでいきなりrapid resumeとかついてて、 こういうところで独自性出してくるのはかっこいいなと思いました」 みたいな感じか?

うわあ。出しちゃった。NTTうんたらというからにはたぶん一流企業なので、 これが通るのか落ちるのかで社会というものの姿 をもう少しよく知ることができるだろう。 しかし、落ちたら手遅れというのが 多少問題ではある。さて、残りは手書きなのでとても 面倒くさい上に書ける文字数が少ない。 送られた方もデータの形で蓄積できないわけでなにかと不便なはずだ。 たぶん、その面倒くさい真似をしてまで送ってくるかどうかで最初の選別をしている のだろう。

とある応募書類にこんなことが書いてあった。
「面接等には、普段の服装でお越しください」
解釈が死ぬほどむつかしいんだが、どういう意図だこれは。

ソニーのエントリーシートを書いていて、すっげえ面倒くさくなってやめた。 よく考えたらオレが電気屋に行ってできることがあるとも思えない。 いいや。

のじりが現れてダベる。カントがいかにイカした奴だったかを説明したら けっこうウケたのがうれしかった。というわけで、みんなもっとカントを読め。 短編「啓蒙とは何か」と、「純粋理性批判」の前書きだけでいい。 どちらもややこしいことは何も書いてないのですぐ読める。 特に前者はおかしい。 最初の7行読めばどれだけカント先生がイカした人だったかが よくわかるだろう。いきなり「バカなのはそいつ自身が悪い。 どうにかしろ(意訳的要約)」だ。全般に自信満々で、 一番大切な「なんでバカでアカンのか」という問いを 完全に無視しているのが熱い。一応「バカを脱出するためには理性を 使った結果を公的に発表する自由がいる」というけっこう鋭い指摘もあったりして 頭的にもおもしろいのだが、 この熱さの前ではそんなことはふっとんでしまうのである。

ところで、哲学は基本的に進化しない学問だ。 時代とともに変化するだけである。 何らかの法則や問題の解決策が発見されることはあまりなく、 時代とともに生まれてきたある状況に際して「どういったことに着目すべきか」 ということを主張するものだ。その意味でオレが知る限り 少くとも近代以降の哲学は学問というよりムーブメントである。 だいたい哲学は進化しない理由を持ちすぎている。 まず、数字で評価できない。役に立たないのでやる人が少ない。 加えて理論が書き換えられないので時間が立つほど物が増え、 結果哲学のこれまでの成果や流れを理解するのがどんどんむつかしくなる。 そして、量が増えているのにもかかわらず分類ができない。 これだけ揃えば進化などするはずがないではないか。 自然科学と比べれみればよくわかるだろう。 測定でき、役に立つのでやる人は増え、 正しさを評価できるので更新されて量の増え方には歯止めがかかり、 かつ量が増えても分野に分けられる。進化しないわけがない。

明日は基本情報処理技術者試験。現在(23:48)総勉強時間0分。 さあこれから本一冊読んで戦いに臨むぜ。なお、明後日は IBMの試験である。

エントリーシートを書きながらイデオン発動編を流していたが、 やはりすごすぎる。構図にせよ音楽にせよテーマにせよセリフにせよ、 何かが突き抜けている。寒けがするほどだ。 ところでふと気づいたが、あのアニメに人型兵器は イデオンしか出てこない。監督はよほど人型がお嫌いらしい。 それにも関わらず人型兵器アニメの巨匠であり、 それ以外のアニメを作ってるのを知らないというのがまたおもしろいのだが。

ところで、SiS530ではMVP4と違ってキャプチャーでコマ落ちしない。 イデオンも全フレーム確実に見えている。MVP4ではまるでダメだった4倍拡大モード でも何ら問題なく見られるのだ。 これは一体どういう差によるのだろうか。

2001年4月13日

シスプリ観賞。それも一度に二話。しかし、思っていたよりは普通だった。 コンセプトが強烈なのは確かだが、逆に言えばそれ以外は大したこともないのである。 ただ普通に出来がよくないだけだった。ただ、あんなコンセプトのアニメを 作れと言われた方も大変だとは思うのであまりキツいことを言う気にはなれない。 むしろよくがんばったと思う。辛いアニメランキングトップ10に入るほどに 辛いものではなく、さてキャラもそろったところで第三話どうするかな? などと期待してしまえる程度の辛さにすぎない。

ウルティマオンラインをちょこっと見た。重かった。 重くないところで見ないとそれ以外の感想は言えない。

社会人というのはとんでもなく大変で厳しいものらしいが、 同時に日本人の大半には務まるくらいのものであるのも事実だ。 ということは、人間はみな社会に出て驚くほどの成長を遂げるということを意味する。 あんな言葉遣いが自然にできるというだけで十分すごいことではないか。

社会人なんてオレに務まるんだろうか。不安だが、 まあ就職で落ちてから考えるとしよう。 受かったら務まるように改造されるわけで、その改造がどんなに厳しいものであれ 始まってしまえば耐えられるものだ。であれば不安になる必要はない。 ないんだから思い悩むなオレ。理屈で感情をねじふせてこその科学よ。

2001年4月12日

大学の事務に回ってエントリシート用書類をかきあつめ、写真をとり、家賃を払い、 イベント申込書を出し、ガンパレ。実験してません。ごめんなさい。 明日はエントリシート書きまくりですんで、実験サボります。ごめんなさい。 しかしまあ、今日はその甲斐あってもういいやというところまでガンパレをやった。 Sランククリアに成功したのである。しかしもういいやという気分になったのは Sランククリアをしたことよりも この文書 を読んだのが大きかろう。ノーダメージクリアとか、スカウトで絢爛舞踊とか、 とにかくやりこみすぎだ。確かによく考えればそういうこともできるのだろうが、 そのために味方の足をひっぱったり、ドット単位の精密なプレイを数十 ターン間違いなく続けるのはオレには無理である。

ところでガンパレはすごいゲームなのだがおかしいところはやはりある。 たとえば移動。教室にいたのに次の瞬間にはまるで違うところへ 飛んでいたりする。あと、メシ食いに行こうと誰かが呼びかけた後観察していても 一向に食いにいく気配がなかったり、誰かと一緒に食いに行く約束をしたはずの奴が 次の瞬間他の奴の呼びかけに応じてしまっていたりする。 行動はパラメータ変化としてのみ扱われているのがこれでわかってしまうのだ。 そして戦闘。最初はてっきり操作しているユニットと操作していないユニットが おなじ原理で動いていると思っていたのだが、実はまるで違っていた。 ターンを10分割したステップというのを基本として「ある行動は何ステップ消費する」 というようなことが定められているタイプの戦闘なのだが、 移動した次の瞬間に撃ってくるなんてのがザラなのである。 ターンの最後に移動しても次のターンの最初にたいがい撃ってくる。 さらに、実は敵はほとんどターンの最初にしか撃たない。 だからターンの最後に移動を入れておいて敵の射程から逃れておけば ターンの始めに撃たれることはなく、結果 攻略はアホみたいに簡単になるのである。 敵とこちらが同じ法則の上で闘っていて違うのは性能と頭だけ、 というのを期待していたオレとしてはインチキをされた気分でちょっとイヤだ。

どうもオレは世界がその世界としての整合性を保っているのが好きらしい。 敵がインチキな法則で動いているならばそのインチキな法則を 別に探す必要があるわけで、 それは作中の敵との知恵比べでなく作者との知恵比べだ。 作品世界の外からの視点を要求するわけで、 オレはそれがイヤなのである。 ドラクエで敵のイオナズンが明らかに弱かったりするのはイヤなのだ。 ちなみにそれとは関係ないが、ガンパレの場合 作者が意図的に作品世界は作品世界、みたいな書き方をしているのが あんまり気に食わなかったりする。推理小説で犯人は読者だ、というようなのは 好かんのだ。作品の中にドップリと漬からせてほしい。 ゲームはゲームなのだからと 味方の足をひっぱって自分の撃墜数をかせぐようなプレイが 嫌いなのもそのへんだろう。 まあ、鬼畜プレイができるのもこのゲームのすごさなので、 もっといろいろやるべきかとも思うのだが。

今日の別文章は天上人を気取ってて鼻につく。 「人間というのはどういうしくみで動いているか」 というのを実際の行動を例にとって考えると、 例にされた人はかなり腹が立つことだろう。 もしオレの日記をネタにして「この日記から人間のこういう性質がわかりますね」 とか書かれたらと思うと確かに腹が立つ。 基本的に「〜〜なべきだ」という意見に対する反論は 「いや、こうこうこうだからそれはダメだ」であって 「〜〜なべきだ、とか言うのはこうこうこういう心の働きによる」 ではない。そんなものは元々の意見を無視してバカにしているようにしか 聞こえないのだ。必死こいて考えて書いた内容を無視されたわけで、 それはもう腹が立つ。わかってるならやめればいいのだが、 つい。とかいいつつ、この段落そのものがそれだ。 まあ、自分への戒めということで勘弁してください。

ネタ的にどこかに似たサイト。 カラテの人というのは自然とこういう方向になるものなんでしょうか。 まあ似てるのは方向性だけな気もします。

文章で通信すること

  モノを読んでいてその人の精神世界がどういうものかを考えるのは 大切なことに思える。さて、この場合精神世界を文章から知るわけだから、 その手がかりになるのは言葉しかない。わかりやすいのは ある言葉に対してどの程度 どういう印象をもっているかを見ることだ。 手がかりになりやすいのは道徳的に善悪がくっついてきやすい言葉で、 たとえば「洗脳」とか「殺人」みたいなのである。 その意味についてどの程度考えた上でその印象を抱いているかを見れば、 その人がどの程度強くその印象を持っているかがわかるわけだ。 あまり深い考察なくある言葉を善あるいは悪としてとらえているなら その言葉の印象はかなり強いと考えられるので、 その人と話すときにそういった言葉を 用いるのは誤解の種となる。 一般に印象の強い言葉ほど理性の介入がむつかしいわけで、 例えば「殺人」という言葉に強い嫌悪感や悪を感じる人は 「なぜ殺人はいけないか」とか「殺人とは何か」について考えることが むつかしくなるものだ。また、自分で考えることがむつかしいだけでなく 他人がそういう問いを発する意味も理解しにくいし、さらにはそういう問いを 発すること自体を嫌悪したり、もっと悪い場合にはそういう問を発する人 を嫌悪したりすることにもなりかねない。しかし、そういう強い印象を持ってしまう のは経験によるものであって本人の選択によるものではないため 責めるのも辛かろう。だからこそ人と話す時にはそういう NGワードを見つけだす作業が欠かせないのである。 ということはわかったが、自分でまるでやってなかったりして恥ずかしい。 しかしまあ、頭ですらわかってないよりはマシにはなるだろう。 所詮頭だけなのでマシ以上のものではないにせよ。

名前を書こうキャンペーン

  WEB文書には全ファイルに名前やメールやURLを入れるべきという意見がある。 確かにあった方が便利そうだ。ローカルに落としてしまっても 誰のものかわかるし、元のサイトもたどれる。 極めてもっともだ。ヒマな時に挿入しておこう。 ただ、そうすることのもっともさと、そうすることを勧めることのもっともさは 別で、そのへんで論争になっているらしい。 段落アンカーの話もそうだが「した方がいい」と「全員がせねばならない」 の間には無限の段階がある。そして、元の意見がそのどのへんの意見なのかを 読み手は往々にして間違いがちだ。それも極端な方に。 しかし、仮に書いた方が「全員がせねばならない。しろ!!」と言っていても 言っただけでどうにもならんわけで放っておけばいいし、 「した方がいい」ならば「ああ、そうね。オレはどうしよっかな」 と考えれば済む。 選択肢を提供することは一般に善とされているので、 本人がどの程度強制したいかに関係なくあることの存在を広めるのは いいことだ。だからそういう意見を見て過剰に反応する必要はないとオレは思う。 「段落アンカーをつけるという風習の是非」と 「段落アンカーをつけるという風習を知らしめることの是非」と 「段落アンカーをつけるという風習を強制することの是非」は 全部別問題であろう。この場合一番目は「確かに理にかなう」、 二番目は「いいんでねえか」、三番目は「そりゃムチャだろ」で ほぼ全員の合意を得られると思うのだが、どうか。

2001年4月11日

ガンパレ降下作戦で頓挫。スカウトより士魂号の方がむつかしいってのは どういうことだ。

防御の活用で突破。しかし1ステップ目に攻撃が集中するという法則を 使えばそんな必要もなかっただろう。 なにせ各ターンの最後にジャンプを入れておけばほとんど攻撃されないのだから。

2001年4月10日

シスプリ。ネタのために見ておかねばならない物体だ。 壮絶な出来と評判であることもあるし、アニメをちょいと見てみるとしよう。 妹12人というだけで壁を超えたという感があるこの作品ではあるが、 それだけで終わっているならば所詮ネタにすぎず忘れられる運命にある。

といいつつ、最近はネタのために云々というのも疲れ気味なので、 よほどすごそうでない限り関わりたくないというのが本音ではある。 ちょっと話題になったくらいのゲームやアニメ等々をいちいち観賞していては 身がもたないわけで、やはりそれよりはちょっとどころでなく話題になった 歴史的な名作をこそ見ておきたい。「これ見ないと人生損するぜ」 とまで言える映画、文章、漫画、アニメ、ゲームその他をどうにかする方が 先だろう。

ところで、 観賞する前は作品の善し悪しなどわからないわけで、 結局のところ薦め方がその作品がおもしろいかどうかを知る情報の全てである。 おもしろい人が勧めるものはおもしろい率が高いし、 おもしろい推薦文や感想文がかかれた作品はおもしろい率が高い。 それだけだ。 だから人に物を薦める時にはできるだけおもしろいやり方で薦めたい。

エントリーシートまみれ。「自分はこれがすごいです」という自画自賛を 自画自賛くさくないように書くという高等技術が要求される。 さわやかさが大切だが、さわやかに書きすぎると何がすごいのかわからなくなって ダメだし、何がすごいのかをやりすぎに書くと さわやかさが減ってうさんくさくなる。実にむつかしい。 まして今オレには誇れるネタがないのである。 「学習し続ける姿勢には自信があります」なんてのは何も言っていないどころか いいわけにしか聞こえまい。 FreeBSD常用してますとかネットワークいじってますとか言うのは なんぼか心証を良くする効果があるやもしれないが、 大した知識がなくてもそういうことができることは先方もご承知だろうから やはり役には立つまい。 なんにせよ「この`ソフト作りました」というセリフの説得力の前には塵も同然だ。 まあ、土台バイオ人がコンピュータな企業に行くなど無謀なのだから、 落ちてあたりまえと考えれば気も楽になる。

なりゆきで研究室の人にヴァイオリンを教えてみたが、 やっぱあの楽器ってムズいんだなと改めて思ったりもする。 最初まともに音を出すのに覚えることが多すぎるのだ。

2001年4月9日

のじり及びニャとえんえんダベっていた。のじりは一年ぶりである。 全然知らん国の話を聞けておもろかった。その他いろいろ。それはもう。

手続きし忘れてダメになったと思っていた会社から再び 説明会のお知らせが来た。慈悲と思おう。

そういや誰彼の感想文を書いてなかったのだが、すでにかなり覚えてない。 そういや顔のない月もまだ途中だったのだが、重くてヤだなあ という状態。なぜそんなに重いのかが謎である。 286でyunoが快適に動いていたことを考えるとどうにも納得できない。 エミュで3次元バリバリなガンパレが快適に動いているのに 二次元の絵を重ねて云々な ギャルゲーが重いというのもかなり不思議だ。 ともかくも自分で作ってみないことにはその是非はわからないのだが。

2001年4月8日

ガンパレのエンディング曲。思い出すだにすげえ歌。 元から無理があった「硬派なサクラ大戦」という定義が完全に崩れ去った のはあの歌を聞いた時だった。

換気扇を注文。8000円。逆回転できる奴は扇風機にも使えて便利かと思ったのだが、 どうにもパワーが弱いのでやめた。ところで新モデルと書いてあったのだが 一体どこが改良されているんだろう。それも毎年。

SiS530。画面にゴミが出る。やはり使ってる人数が少ない機械はダメか。 やはり自分でドライバを書けるように勉強するのが一番まっとうな 解決策なのだろうな。

2001年4月7日

日記を書くようになってから文章の形で考えるクセがついてしまったのだが、 それはとんでもなく効率が悪い。 言葉は人間の思考能力を落とす最大の原因なのである。 確かに文章にするのならば言葉で考えるのは 効率がいいのだが、文章にするために考えているわけではないのであって どう考えても本末転倒である。 てなことを考えて言葉で考えるのをやめるようにしたら、今度は 日記を書く段になって文章化にてこずるようになり、結果面倒くさくなって 日記を書くのがおっくうになった。なにしろ言葉でない方法で考えたことを 言葉にするのはとっても大変なのである。「なんつーか、コレ。わかれよ」 の一言で済ませたくなる。しかしそこを敢えて伝えようとするのがロマンだし、 伝える方法は言葉しかないので、やっぱり文章はやめられないのである。 実は伝えないというのが最大の解決策なのだが、オレは目立ちたがりのガキなので そういう解決策には気づかないことにしておく。

IBMの説明会に行ってきた。今度は開発系のセミナーだ。 とりあえず感想は「すっげえしんどそう」。 しかし、すっげえしんどい職場というものは当然それに耐える能力を 要求するわけで、そうでない人間は巧妙に試験で落としてくれることだろう。 であれば、オレがそういうところでやっていけない人間であればそもそも就職 できないはずで、受かるようならたぶんやっていけるに違いないという かなり根拠のない推論が成りたつくさい。というわけで、受けてから考えよう。 自分の能力がどれほどかとか、自分が何がしたいかとか、 そういうことを考えるのはもう飽きたわけで、かくなるうえは成りゆきにまかせて おけば良い。

漫研花見。であったことを夜知った。今頃カラオケか麻雀か。

2001年4月6日

SiS530がXFree86の4ではロクに動かないので3.3.6にかえた。 こういうことがなぜ起こるのかは謎だが、 自分でドライバを作ってみればそれを責めるなんてできなくなるに違いない。

solo1で鳴らそうとすると
pcm0: play interrupt timeout, channel dead
とか出て動かなくて困ったのだが、PCIスロットの4番目をあけると鳴った。 内蔵音源とPCIの最後が共有というのはよくある話らしい。 ともかくこれで移行は完了。isa音源も余ったし、よかったよかった。

モニタの電源が入らなくなった。となりの電気屋に もってって直してもらうのが一番早いか。

連想回路

  思いつきだが、人間の思考は連想以外の手段を持っていない気がする。 言うならば脳というのは巨大な連結リストなのではないか。 ただ、単なる連結リストではないのは まるで一対一でなくかなりメチャクチャに結びついているということと、 たどってきた経路によって次にどのデータに飛ぶかの確率が変化することだ。 経路情報がまたデータになるということは、つまり思考の過程やその結果としての 行動もまたデータになるということで、バシバシ複雑なデータ構造が構築されていく ことになる。 根本の理屈は単純でも結果としてできる データ構造は到底把握不可能なカオスになるわけだ。

  オレは昔2×3をよく5と間違えたのだが、これは「にさんがご」という 音的フレーズを間違って覚えてしまったことによる。つまり、計算をする といってもその根底たる足し算・かけ算部分は所詮連想なのである。 オレの場合2+3というフレーズから6へのリンクだけでなく5へのリンク も出てしまっており、しかも5へ行く確率の方が高かったわけだ。 最近間違えないのは5が出てもチェック機構によって6に修正し、 かつそれを繰り返すうちに 5へ行く確率が減って6に行くようになったということである。 このリンクというのは 物理的にはシナプスなわけで、これは刺激がないと次第に切れるようになっている。 結果おそらく全てのリンクは次第に確率が下がっていくわけで、 使わないリンクはいずれ確率が0になって廃棄される。 脳というのはだいたいそんな感じであらゆることをやっているのではないだろうかと 考えるとけっこうつじつまがあっておもしろいのだ。

  ところで、脳の場合この「データ」の単位はコンピュータのファイル のようなものとは全く違うものだろう。根本的にはおそらくデータの最少単位は シナプス1個なのではないだろうか。それが結びつく強さによって 「ファイルっぽい」場所はあるにせよ、程度の問題であって 中身はバリバリ改変され得る。 そういうことを考えていくととてもじゃないがコンピュータ ごときに脳ミソのマネをさせるのは無理くさい。少なくとも今の形式では無理だ。 記憶が一次元的に並んでいるということがそもそも脳とは違いすぎているし、 記憶と演算が分かれているということもまた脳ミソとは違いすぎている。 マネさせるとすればコンピュータにいくらか脳ミソの形式をとり入れてみる 程度が限度だが、こういうメチャクチャな並び方をしたものを 線型であるメモリやらハードディスクで表現するのはかなりしんどそうだ。 どうにかからないものだろうか。

2001年4月5日

帰ってきた。実家であったことを列挙すると、うしおととら、ガンパレ。 こまいことは後で書こう。

ついでに、仙台のソフトアイランドでSiS530+solo1マザーを発見。 mvp4追放のために買ってしまった。かなり意味ないがVIAは嫌いなので良し。 さらに、弟を実験台にSiS730を試し、 その結果vantaを強奪してきた。 後で試してみよう。ガンパレやるのに。

うしおととら。すごくおもしろかった。加えて感動だ。 微妙に秋葉君が理解不能な他は特に気になるところもなく、 キャラはみんないい奴でかっこよく、話もゴツくてたまらない。 絵も熱い。この漫画の絵はパっと見た感じ汚いのだが 読みにくくなっているわけでもなく、むしろこの勢いに次第に のみこまれていく。 特に表情がいい。憎悪にせよ、喜びにせよ、悲しみにせよ、表情が とにかく強烈だ。こういうのが漫画家なのだと思うと、 自分がやっているのは所詮漫画の真似事にすぎないのだという気が するのだが、比べる対象がすごすぎて別世界なので 別に悲しくも悔しくもない。しかし、学ぶところは多かろう。 こまごまとした技術的なことはともかくとして、熱をもって描くことの すばらしさが何よりも感じられた。だが、オレががんばって熱いものを描くというのが 自分でもまるで想像できないし、仮にやったとしても身内にバカにされて 終わる気はする。

ガンパレ

  ガンパレ。飽きっぽいオレでも100時間くらいは遊べそうなほどおもしろい。 すでに40時間くらいはやっている。そこらへんを歩いている奴等が ちゃんと自分で考えているというのがウリなのだが、 それが実際に感じられるあたりこのゲームはただものではない。 コンピュータが動かしているキャラに人格を感じ、 かつその動きにある程度の道理があるということは、 ゲーム世界を信用できるということだ。 現実的な判断で彼等の動きを理解することができるということは、 ゲーム内部に実生活の判断基準を持ちこんでも良いということであり、 それは「ゲームだから」というだけで理不尽な理屈を学ばねばならない 苦痛とさようならしていいということなのである。とはいうものの やりこんでいけばうさんくさい行動は目につくし、 このAIが どういうパラメータを持っていて、どういったレベルのシミュレートをする アルゴリズムなのかが想像できてしまう。そのあたりが残念ではあるが、 それはあたりまえなのであって、ここまでやったこのゲームをけなす理由には ならないだろう。また、戦術ゲームとしての出来もハイレベルだ。 ゴツいボードゲーム並みに高度なゲームになっており、 かなり頭を使わないとしんどいものがある。途中出てくる熊本城防衛戦や 降下作戦の難易度にはけっこうヒーヒー言わされた。 前日にセーブしてしまっていたりすると場合によってはにっちもさっちも行か なくなることもあるだろう。だが、そこがまた硬派でたまらないし、 某ファイヤーエムブレムのように腹立たしい原因で負けることもあまりない。 純粋に戦術の改良で負け戦にも勝てるようにできており、 ひとマス数え間違えたとか、引き算間違えたとかいうつまらない理由で 死ぬことはあまりないからだ。「次はこうしよう」という思いを持って 再チャレンジしていればちゃんと勝てるようにできているのがいいのである。

  ところで、ここからはガンパレ感想でなく単なるガンパレ話である。 2回やってわかったのだが、最強はスカウトだ。武尊に乗り換え、 体力、気力、運動力が700を超えたあたりから士魂号よりも 強く感じられるようになる。 こうなると武器などいらない。 ロケットジャンプさえあれば事足りる。 両肩にシールドがあるとなお良い。ジャンプで飛びこんで狙いをつけて蹴り、 というのが基本戦術で、スキュラも一撃だ。スキュラ以外なら狙う必要もなく、 キメラ以下ならパンチで事足りる。すり足で微妙に動いて射撃を避けながら 動いてはパンチ、キック。ザコ用にカトラスを持っておくとなお効率がいい。 来須の帽子、ライダーグラブで攻撃力を増強し、猫の首輪で 能力値をドーピングすれば蹴り一発でスキュラに7000なんていうメチャクチャな 状態にもなる。オレの時は最終体力は2185で、気力も1280、運動力は なまけていたので800そこそこだったが、十分すぎる強さだった。 耐久力は2400を超え、まさに人間スキュラである。 士翼号が足手まといに感じられたほどだ。 やられても性能が落ちず、整備もいらない。日常生活もエンジョイしまくりで、 実に楽しかった。 ちなみに一緒に仕事しまくった相棒の若宮も バカ強くなっており、士翼号がピンチになっても奴はピンピンしていたほどである。 例の降下作戦も多少苦労したものの20ターンぴったりで無事殲滅に成功した。 ただし、やはりsランククリアには複座型の方がいいだろう。 効率よく撃墜数をかせぐにはミサイルは必須だからだ。 NEPがあればより楽で、そのためにもやはり士魂号がいる。 実際オレもスカウトでは100そこそこだった。うちスキュラが30近くいたといっても そんなことは評価されないのが悲しい。最適化すれば150は可能だろうが、 300はしんどかろう。

  また、訓練や仕事は人と一緒にやる方がいい。さっさと森と速水に接近して 一緒に仕事/訓練を覚えてしまい、バカスカそれを連発する。 仲良くもなるし、効率が極めていい。ポイントを探す手間もないので断然お得だ。 運動力だけはこの方法では上げにくいので自力でやらねばならないが、 それだけなら大した負担にはならないだろう。加えて、みんながんばろうとか、 みんなでお昼は仲良くなるのに絶大な効果がある。みんながんばろうを連発していると みんながやけに仕事をするようになるのでそれもまたおいしい。 まともなプレイにはとっても役に立った。

  しかし、まともにばかりプレイしていてもやはりつまらないわけで、 原に刺されそうで刺されないギリギリを綱わたりするとかいうのもたまらなかった。 奴が顔を赤らめた時には死を覚悟したものである。 2回目の時は原以外ほぼ全員とラブラブ状態にしてしまい、 どこに行っても争奪戦という地獄を味わったりもした。 このゲームは放っておけばそうなるように仕組まれているので 仕方ないのだが、女共の互いの友情度がことごとく-120な状態はなんとも恐ろしい。

  次はやはり女キャラでやって逆地獄を味わうべきか。男をことごとく手玉にとって 争わせる魔性の女というのもおもしろい。ついでにSランククリアを狙うとしよう。 というわけで、次のキャラはバムー(愛称。芝村のこと)決定。 なお、ソックス編は弟がやっているのを見てしまったのでやる気にならない。 ジーザス(サンデーでやってたマイナーな漫画)ネタ満載で、 こんなんみんなわかるのか?という感じだった。


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