日記

2003年8月30日

うに食った。何故かスーパーに原形を留めたうにが売られていたので、 つい買ってしまった。中身は生き物だけにかなりグロい。 中身は半ば液体で身はほとんどなかった。この生物には筋肉は口兼肛門の周りに しかないらしい。そしてあの黄色い部分以外確かに食えそうにない。 そしてあの黄色い部分にしたところで、知らなかったら食えるとは到底思えまい。

2003年8月29日

今WEBを漁ってたらパデ近似というのにぶつかった。 テイラー展開などの多項式近似を有理多項式に拡張するテクニックである。 分子と分母で合わせてN次の多項式を使うと N次の近似になる。これがどれくらい精度がいいのかは知らない。 しかし、仮に3+3次のパデ近似と6次のチェビシェフ近似 が同等の精度だとすれば、前者の方が速い可能性があるのだ。 今のCPUには計算機が複数入っている。 多項式計算は逐次結果を使うのでいくつ機械があっても一つしか使えないが、 二つの多項式を計算するとなれば同時にやれる。 一つあたりの次数が半分ならば、理論的には倍速い。 あとはその速くなった分よりも割り算のコストが低ければいいということになる。 もしパデ近似の方が精度が高いならなおさらおいしい。

少なくともe^xなら同じようにテイラー展開を使っても パデ近似を使った方が精度がいい。確かめた。それも相当に違う。 明日は楽しくなりそうだ。 しかし、こんなことに熱中してもあまり実用にはならない。 関数を速くするよりも、その関数を呼ばなくて済むようにすることの方が よほど大切なのである。

音楽以前である。左手で34あるいは43と弾くと際立って引っかかる。 トリルなど論外だ。右手も片方が黒鍵にかかる34トリルは使用に耐えない。 いくら曲の流れがどうだこうだ言っても、手の性能が足りない状態では無駄だ。 そういうわけで今日は異常にゆっくりと左手をずっと監視しながらハノンをやってみた。 左手の薬指と中指が一緒に動こうとするのに抵抗して 渾身の力を込めて引きはがす。ついでに弱いそいつらをかばおうとして 反動をつけようとする小指や人差指が動こうとするのをこれまた 即座に察知して力を抜く。疲れた。 拳法でもそんなことを何箇月もやり続けたものだが、 そのうちマシになった。あれから何年も経っていないことを思えば、 肉体の可塑性もさほど変化してはいまい。つまり、間に合う。 右も左ほどではないが同じ傾向があるため、左の改造に成功したら 右も同じことをやらねばなるまい。しかし今は左だ。

土曜夜京都へ行きます。道場で用事を済ませて寝て起きてから しばらく何かして、日曜夜に帰ります。 なお、土曜寝る場所はニャの部屋で決定しているので、 土曜の夜にいきなり他の誰かを襲撃することはありません。

チェビシェフに熱中している時、後ろでおねツイの話をしていることにふと気づいた。 私同様にあれをどう収拾するのかが気になるらしい。 曰く「私は二人が合体すると踏んでるんですがね」。 なるほどそんな手があったかと一瞬思ったが、 いくらなんでもそれはたまらん。

しかし、PCハードにプログラミング、そしておねツイにプラモ。 加えて「夏は涼しかったですね。人も明らかに少なかったですし」 とか言ってたのは、間違いなくあれだろう。 絶対そうだよなあと前から思ってはたが、今日しっかりと確認が取れた。

係数に突然変異を起こさせては適応度を測定してある範囲のもののみ 子孫を残させる、ようなことをしたらそのうちミニマックスになったり しそうな気がするが、どう考えても時間がかかるし、数学的な裏付けがなくて不安だ。 Remezのアルゴリズムというものがすでにある以上それを勉強すべきである。 調べるとたいがい信号処理関係で引っかかる。 一度知っておけばいずれ使う日も来るだろう。

remezと思われるアルゴリズムを用いて、近似精度の偏りを除くことに成功。 本のは符号が逆だった。しかし理屈としては本の通りで合っている気がする。 後でしっかり見直してみないとダメだろう。 それで効果だが、物によってはかなり大きく改善される。 少なくとも悪化することはないのでやって損はない。 ついでにチェビシェフを基本にしたパデ近似も実装したが、 向いた形をしていないとかえって精度が落ちる。 むろん上がることもあるが、それほど劇的なわけではない。 それに一つの多項式を並列に計算して高速化する方法がわかったので 割り算の危険を犯してまでやる価値もなくなった。 a+bx+cx^2+dx^3を、a+bxとc+dxに分けて同時に計算し、 c+dxの方にx^2をかけてから加えれば出来上がり。 4つ計算機があれば7次式でもかなり高速に計算できる。 バカ正直にテイラーを計算しても大して遅くならないという 現実に気づいてちょっとブルーになった。 なんで思いつかなかったのかと思うが、合計の計算量にダマされて 並列可能性まで考えが及ばなかったせいだろう。 さて、いいかげんこんなちまちましたことには 飽きてきたので月曜中に終わらせて次の話題へ移ろうと思う。 しかし、有理式にremezアルゴリズムを適用して ミニマックス化する方法をまだ考えておらず、それができれば パデ近似の有用性が高まる気はする。

しめきりの決まった作業がないため、 かなりのごくつぶしっぷりを発揮している。 そろそろ目に見える形で「こんなにやりました」と言わないと立場が危うい。 とは言いつつも、絵的な部分やゲーム性に関わる部分には 一切関わっていないため、私に許されるのは 「こんなに速くなりました」だけである。 しかし、現状私の手の届かないところにあまりに大きな問題があるので 他のどこを直しても劇的な改善は見込めない。 一応上に伝えてはみたが、設計レベルの話だけにすぐにどうこうできるわけでは ないらしい。 仕方ないので自分の管轄を強く美しくすることに熱意を注ぐことにする。

昔STLを使って遅かったのは最適化を切っててインライン化されなかったせいだろう。 インライン化されればvectorの速度は配列と同じはずだ。 STLを使わないのはどう考えても無駄だろう。 いくらかテストをしたら置き換えてしまえ。

2003年8月28日

チェビシェフ補間。やってることはフーリエ級数と一緒だ。 周波数の異なる直交関数群の和として関数を表現する。 フーリエがsinを使うところに多項式を使うというだけの話だ。 次数の高い多項式は周波数が高い波に相当し、 つまり次数が高いのを足せば足すほど精度が上がる。 そう言われるとテイラー展開と何が違うのかと思われるかもしれないが、 テイラー展開と違って展開の中心が存在せず、 どこでも同じくらいの精度になるのが特徴だ。 テイラーのように中心から外れると目に見えて精度が落ちるようなことがない 代わりに、どこでもそれなりに精度が悪い。 sinを近似するような時には、端だけ極端に精度が悪いよりも 全体がそれなりに悪い方がずっといいのである。

ミニマックス近似式というものがある。 その次数で一番最大誤差が小さな多項式のことで、 要するに究極の近似多項式だ。 チェビシェフ多項式近似は何もしなくてもほぼミニマックス近似式なのだが、 まだ改良の余地がある。 これをやるのに使うアルゴリズムがRemezのアルゴリズムという奴らしく、 たまたま持っている本で近似に使っているのはどうもそれらしい。 それらしい、というのは名前もなければ詳しい説明もないからだ。 すでにそこそこできている近似式を もう少しいじったらもっとマシにならないだろうかという考え方で、 マシになるように係数をちょっづつずらしていくということはわかるが、 いかにして「必ずマシになるように係数をずらす」のかはさっぱりわからない。 連立方程式を解いているが、その連立方程式がどこから出てきたのかは さっぱり謎だ。加えて、書いてはみたがまともに動かない。 一応書けたはずだがかえって精度が落ちてしまった。 理屈を理解しないと直しようがない。

それにしてもチェビシェフ補間は偉大だ。 sin(0<x<PI/4)ならわずか3次でそこそこ使える式ができる。 なお、多項式でやらずに有理式でやると格段に近似が良くなるらしい。 多項式割る多項式だ。連分数はさらにいいとも聞く。 計算に除算が入るのであまりうまみはなさそうだが、 いずれ試してみたい。

犬は夏になるといつもハアハアしているのだが、猫はしていない。 やはり犬は無駄に動くからだろうか。

犬も猫も汗をかかないのであまり皮膚が汚れない。 言われてみれば当たり前のようだが、ずっと気づかなかった。 あいつらはかゆくなったりしないのだろうかとずっと思っていたのである。

2003年8月27日

D.C.、グリグリ、ハピレス、おねツイ。 D.C.は総集編もどきだったのでどうでもいい。 グリグリは前回に勝るとも劣らない嫌さにド肝を抜かれた。 到底萌えアニメとは思えない嫌さである。 ここまでやりすぎてくれればもう言うことはない。最後までつきあおう。 3バカのひどさが回を重ねるごとにより強烈になっていく。 ものすごいクソアニメだ。 ハピレスはいつも通り安心して見られる出来。何やら豪快な引きが気になる。 そしておねツイ。すげえ。おねティもすごかったが、これもすごい。 とにかく熱く恥ずかしい。ここまでやるか。 そしてうめえ。カット割りが死ぬほどうめえ。 典型と言えば典型だが、典型をここまできちんとやられると悶えざるを得ない。 それにしてもこの設定はすごいなあ。どう片をつけるんだろう。 二人が対称なのか非対称なのかすら予測がつかん。 やはり今一番楽しみなのはおねツイだ。

普通に考えればミーナとくっついて終わりだが。 ひねってくれても、順当に終わっても、どちらでもたぶん十分おもしろいだろう。

おねツイの歌が全く覚えられない。思い出そうとしても思い出せない。 検索をミスってマブラブの主題歌が出てくるくらい思い出せない。 おねティの主題歌は一発で覚えたものだが。

ふふーんおもしろかろー。 花咲ける青少年は樹なつみの中でも1、2を争う傑作だと思う。 むろん樹なつみそのものが一流の漫画家だ。 どれを読んでもそこそこ以上にはおもしろい。 どれもキャラの魅力とストーリーが不可分で、どちらが重視されているという こともない。 そもそも、キャラの魅力とストーリーが分離できるようなものは何かが間違って いるのではないのか。

ちなみに、樹なつみの漫画は速そうで気持ちいい。 そうは見えないかもしれないが、実は福本並に定型化されている。 背景は一発トーンを多用し、絵そのものも相当雑だ。 今の精密な漫画もそれはそれで大したものだが、 私はもう少してきとうな絵の方が肌に合う。

クォタニオンの応用法がわかった。作ったら本当に回った。 向きの補間ができて計算が速くメモリも食わないという 素晴らしい道具である。 しかし、どうせ最後は行列にせねばならないし、 実際の用途では移動や拡大が入ってくるので途中でも行列にせねばならない。 3回オイラー角で回転行列を作ってかけるよりは クォタニオンを回転行列に変換する方が軽いが、あまり変わらない。 しかしそれでもなお利点がある。 補間ができることと、90度回してもロックされないことだ。

チェビシェフ多項式とミニマックス法による関数の近似について少々勉強していたが、 よくわからん。言われた通りやればテイラー展開するよりはるかに マシな近似式が得られるというのは確かにその通りなのだが、 理屈がよくわからん。こいつも一回自分で書いみないとダメだ。

ヴァイオリンを破壊する夢を見た。最悪だ。起きてからも手が震える。

2003年8月26日

一回誰かがまともに作ってしまえばみんなで幸せになれるのに 何故そうしないのだろう。 いろんなことに言えることだが、今回は仕事についてのことなので 事態は深刻だ。他がやらないなら私がやればいいし、 それは私にとってはむしろ歓迎すべきことだが、 私のような青二才が勉強しながら書くよりは百戦錬磨の強者が書いた方が ずっと早く良いものができるはずなのであって、 組織としては何かが間違っている気がする。 身分的に可能な範囲で最善を尽す以外に選択肢がないとは言え、 何か釈然としない。やるが。

クォタニオン中。長さが変わらず、 2つのベクタの角度と掌性が変わらない変換は回転である。 掌性が変わらないとは、鏡に写すような変換をしないという意味である。 ある関数f(a)を回転を表す変換とするとき、 aの長さが変わらないのは|a| = |f(a)|と言い換えられる。 角度が変わらないのは、角度は内積で定義できるから、 dot(a,b) = dot(f(a),f(b))と言い換えられる。 掌性は外積でわかるから、 cross(a,b) = cross(f(a),f(b))と言い換えられる。 なるほどクォタニオンの乗算による変換はこの条件を満たしているので回転だ。 それはわかった。使うのは言われた通りにするだけなので簡単だが、 これ以上きちんと理解しようと思うと代数学をやらないと話にならない。 今日わかったのは、 積算を単位元と逆元が存在するように定義できればそれは実数や複素数のような 「数」としての扱いが可能になるということだ。 ベクタは「数」ではないが、これがクォタニオンになると「数」になる。 そして確かに言われてみれば正則な行列もまた「数」だ。 何やらおもしろくなってきた。応用と勉強を同時に進めよう。

2003年8月25日

ダメだ。またあの敗北感を味わえと言うのか。 しかし集中が乱されて話にならない。 むしろ、考えるべき対象の色と今の私の頭の中の色が 合っていなくて白々しく見えると言った方が正しいか。

敗北宣言。肩の荷と一緒にいろいろと失った。二度目だ。

クオタニオンの勉強が必要になった。 ちょうどいい。ここでわかってしまおう。 今回は数学と物理に集中できそうなので徹底的にやる。 それにC++の使い方の本を3冊も買ってきたので、これも理解して使えるようにする。 CPUを直に叩く最も具体的なレベルから、 継承やらテンプレートやらを駆使した最も抽象化されたレベルまで、 どのレベルでも勝負ができるようになってやる。

2003年8月24日

初ショパン。ポロネーズ、ト短調。しばらくやったら 速度はともかくとしてとりあえず曲の体裁は成した。 左右の手が交差するのには面食らったが、慣れれば速くもなるだろう。 片手当たり3つとか音があるのも最初かなりビビったのだが、 種類が少なく音楽的に意表をつく音がないため 慣れればどうにかなる気がする。 本来の速度で鍵盤を叩けるようになるのにさほどの時間かかるまい。 しかしやってみてわかったが、そういう問題ではない。 ちょっと慣れたくらいでこれを音楽にできるのだろうか。 基本的な何かが著しく不足している気がする。 片手で3つ音を出すというのがこんなに重いことだったなんて知らなかった。 一つだけ出す時には手の重みが一つに集中するが、3本あれば 3本に分散する。ということは理屈上は三倍強く落とさないと同じ強さで鳴らない。 加えて弱い指に負荷が集中して均等に鳴らせない。 インベンション1番の最後の音で急に弱くなったり、 ミソドの音量バランスが毎回不安定だったりして気になってはいたが、 要するに手がピアノ用になっていないせいだったのだ。鍛えろ。

前まで使っていたインベンションの楽譜は全音のツェルニー版だった。 そこで市田版を買ってきて比べてみたのだが、運指が全然違う。 ポジション移動をできるだけフレーズの切れ目に 持って来ようというポリシーで作られているらしく、 フレーズの切れ目であれば多少ジャンプしてもかまわないという思想と見た。 ツェルニーは全く逆で、可能な限り連続的なポジション移動を頻繁に行って ジャンプをなくすようにしている。 その結果フレーズと運指にはあまり関連が見られない。 ポジション移動で音に切れ目が出るような技術では話にならないし 実際弾きやすいのはツェルニー版だが、 気持ちと体の動きが自然と曲の流れにシンクロする市田版の方が なにやら気持ちがいい。こっちで作り直してみるか。

初モーツァルト。ソナチネ。なんか、存外どうにかなりそうな予感。 これも同様に楽譜に書いてある音を出せます、というところまで はそれほど時間もかかりそうにない。あまりにも典型的にモーツァルトなので 辿りやすいのだ。一部小指と人差指で7度開けというかなり辛い 運指を要求されるが、私は手がデカいので不可能ではない。 私は挑戦できるレベルにもそこそこな曲がけっこうあるようだ。

ところで、スラーがわからない。指の完全置き換えを伴う ような流れでどうやってスラーを表現するのだろう。 スラーに聴こえるくらい素早く切り換えろということか。 これができなければ音楽以前だが、しかし現状ではまるでできる気がしない。

突然入ったとある事に時間と精神の平安を奪われている。 昼間はリリちゃ箱をやったりしてとらハ世界に浸っていたのだが、 夕方になる頃には不安になってきて、 とりあえず一回外に出て調べてみることにした。 いろいろ調べたりしたが、考えれば考えるほど 可能な限り早く事をはっきりさせないと後々大変なことになりそうな 気がふつふつとしてきてどんどん動揺がひどくなってきた。 そういうわけで来週京都に行きます。遊びに行くわけではないので 土曜の昼か日曜の昼にちょろっと人に会えるか会えないかというところでしょう。 それどころじゃない、というのが正直なところ。

で、そのリリカルなのは。本当にいい。 登場人物のあまりの美しさに目がくらむ。 何故に彼等はああも人間が出来ているのか。 もはやあの空気は悪を許容できないのではないかと思われるほどに いい人まみれである。多少人間的に問題がある奴が出てきても、 その欠点込みでいい奴オーラに包まれてしまうのが信じられない。 ふと隆慶一郎を思い出した。あれも嫌な奴は容赦なく嫌な奴と言われて 斬り殺されるが、その割には悪役に対するぞんざいさや作意が感じられず、 むしろ優しささえ感じられるのである。 それにしてもこれの場合は さすがにおまけシナリオだけに いろいろなキャラに次々と焦点を当てていくおいしい構成になっており、 ただでもいい奴が余計にいい奴に見えるような シーンが矢継ぎ早に出てくる。 魔法少女リリカルなのは、などというネタとしか思えない題名に代表されるように バカげたお約束の固まりでありながら、何故こうも良いのだろう。 確かにファン用のおまけシナリオとしての 完成度は甚だ高いが、そういう小賢しい問題ではもはやない。

あれを楽しそうで幸せそうな生活と一言で言うのは簡単だが、簡単すぎる。 あれは各人が努めてそうあろうとしてついに勝ち取ったものだ。 だからうらやましいと思うわけにはいかない。 むしろあれほどの思いやりを持つに至るような何かを普通は不幸と言う。 毎日真剣で妹と人殺しの訓練をする生活に本気で あこがれる奴などせいぜい ニャくらいのものであって、 普通はそんなマジなことはしたくないものだろう。 ニャとて父親を爆殺されたくはあるまい。 しかしそれでもなお私にできるのはそういう事に目をそむけて 和やかな雰囲気のみを見て酔っぱらうことだけだ。

もっともだと思った理屈には、従うか、 自分が悪であることを自覚し続けつつ従わないかのどちらかしか許されない。 しかし最も良く選ばれる選択肢はそのどちらでもなく、 ただ単に忘れるというものだ。しかも現実的には その第三の選択が最も妥当な場合が多い。 さて、このとらハ世界のあまりに理想化された思いやりの心を見せられて、 私はあれをいいものだと思った。 それで私はどの選択をするだろうか。 少しは人を思いやろうという気になるだろうか。 なりはしないのである。むろんそれにうしろめたさを感じ続けることもない。 しかし今の気分の一部を言葉に固定した 「自分はあの世界に存在するには邪悪すぎる」という記号は 折に触れて思い出され、今のような気分を再生するだろう。 それはそれで結構なことだ。ただし いい奴にあこがれることがいい奴になるための力にならないのならば それはむしろ害悪にしかならない。

2003年8月23日

徹夜。朝直前までニャと長電話してヘロヘロになりつつも 寝るわけにはいかないのでがんばっている。 なにしろ寝るところがないので寝ようがないのだ。 部屋が狭すぎて一時的にどかしておく場所がベッドしかない。 それでも足りなくて廊下まで使って、今どうにか床が見えてきたところだ。 ところで、ケーブル類を整理するために一度PCを落としてから 掃除をしたのだが、終わって電源を入れようとしても入らず焦った。 ファンを無理矢理止めてふたを開けっぱなしにするという 論外な使い方を1年以上続けてきたのだから無理もないが、 一年以上続いたなら何も今日死ななくてもいいのにと思う。 幸い余ったマシンの電源を移植して事無きを得たが、 こういう不安な時間は嫌いだ。 しばらくはマシンが3台ある環境を楽しもうかと思っていたが、 予備電源はATXで箱に入らないのでやめる。 箱に入らない電源を使い続けるのはジャマだし、 そもそもマシンそのものがジャマだ。 もらい手がいなければHDDはFreeBSDマシンに追加して CPUとメモリとマザーはジャンク屋に売り払ってしまおう。

買い手がみつかりました。

楽譜を買ってきた。 モーツァルトのアイネクライネ・ナハトムジークと6つのウィーンソナチネ、 それにショパンの例のポロネーズト短調が入っていたもの。 解説を見ると本当に7歳だった。ところで、バッハでピアノと言えばこれだろ ということでゴールドベルグ変奏曲の楽譜を見てみたが、当分無理だ。

WEBで楽譜の評判を調べてみたりした。全音のは総じてダメらしいが、 どうダメなのかがわかるレベルになるまではこれで良かろう。安いし簡単に手に入る。

こんな状況にも関わらず降りてきた。問題はこれがおもろいかどうか、 そしてまだ私に絵が描けるかどうかだ。

買ってきたHHKが日本語配列であることに気づいて泣きたくなった。 windows機でまともにキーボードを使う予定はないので今さし迫って困る わけではないが、ドブに捨てたことに変わりはない。 考えたらUSB切り換え機を買えばそれで良かったのである。 弟にでもやるか。 なお、一緒に買ってきた光マウスは何故か光が青くて無駄にかっこいい。

2003年8月22日

あれが7歳ですか!。天才すぎます。いそいそとgoogleで探した結果、 ショパンを踏破しているありがたいサイトを見つけまして、 今いろいろと聞いています。 今週末にでも楽譜を漁りに行くとしましょう。

ところで、インベンションがそれほど簡単ではないというのは 確かにわかります。ヴァイオリン的な類推で、 「音符少ないし楽だろ。バッハ好きだしちょうどいいや」 という程度の理由で選んだので別に大した理由があるわけでもありませんでした。 しかし、始めてみるとこれがまたたまらないのです。 ヴァイオリンの無伴奏ソナタにおいては 無理に重音を使って複数の旋律を表現してはいますが、 ヴァイオリンの制約のために真に独立した旋律として聴かせるのは ほとんど不可能とも思えるほどむつかしいことです。 プロの称号を持つ人でも十分にできているとは言えないことがあります。 当然私もまるでできません。 しかしピアノならそれが易々とできてしまいそうなのです。 本当に独立した旋律を2つ、あるいは3つも 同時に奏でられるというのは感動以外の何者でもありません。 左がある程度一定のリズムで伴奏をしているような曲は 確かに弾きやすく初心者はそこから始めるべきかとも思うのですが、 その意味から言うと少々魅力に欠けます。

それに、やってみたら以外とどうにかなったというのもあります。 2番などは最初どんな曲なのかすらわからず、かなりの難航が予想されましたが、 それでもともかくも曲の体裁を成すくらいにまでは弾けるようになりました。 5番も同様に苦労していますが、 だいたいどうすれば弾けるようになるかというイメージはつかめてきています。 最近グールドのCDを買ったのが大きかったかもしれません。 どんな曲なのかを知る手がかりが楽譜しかなかったのに比べると はるかに曲の感じをつかみやすくなったからです。 なお、今一番弾きたいのは3声の7番です。 CDを聞いてすっかり好きになってしまいました。 グールドだからかもしれません。

ハノンの効用がインベンションでまかなえる、というのはなるほどと思います。 私もヴァイオリンで音階や練習曲をまるでやらずえんえん曲ばかり弾いてきたので、 素直にうなづける意見です。 ビバルディやバッハを練習曲のように使っていました。 ただ最も少ない労力で5本の指を平等にする方法は やはりハノンなのではないかと思うのです。 ヴァイオリンで音階や練習曲をさんざんサボった挙句 弱い指をかばうように妙なクセがついてしまったという 経験もあって、曲をたくさん弾けば大丈夫と素直に思えないところもあります。 それにそもそも私の場合ピアノに割ける時間は微々たるもので、 曲をたくさん弾くこともできそうにありません。 それに、よしんばたくさん弾くとしても、 曲の途中で習熟度以外の原因で引っかかるのはかなりのストレスです。 慣れてないから弾けない、というのは当然ですが、 慣れ云々以前に筋力が足りないというのは曲を弾いていて本当に嫌な 気分になります。 私の場合、右の小指の筋力が目立って弱く、 左の薬指の可動範囲がかなり狭いという弱点があり、 インベンションを弾いているとそれぞれの曲で一回か二回くらい それを原因とする嫌な引っかかりを感じます。 こんな弱点はさっさと消してしまわねば安心できません。 そういう用途にはハノンの方が何も考えなくていい分気が楽なのです。 中指と薬指のトリルはヴァイオリンでも苦手なので、 ハノンで一緒に強化でできるかもという期待もあります。

そういえば、WEBでハノンについて調べていた時に 「大人の薬指の弱さはもう矯正不能だから、 ハノンなんてやっても無駄だ。大人しく薬指に負担をかけずに弾く 工夫をした方が楽しく弾けるだろう」 というような文章を見かけました。そうかもしれません。 しかし、子供の頃からやってない人間はまっとうなピアノは弾けない、 と決めつけられているようで腹立たしいので敢えて挑戦してみることにします。 その文章を読んだのもハノンにこだわる理由の一つかもしれません。

探しものが見つからない。部屋が腐海のごとき様相を呈しているのだ。 そこで掃除をすることにした。そもそも机の上を空にせねば物も書けない。 今は手始めに段ボールをえんえんちぎっている。 電子ピアノの箱が厚くてデカくて強敵だったが、 それが済んでしまえばあとは烏合の衆だ。 やはりこれも背筋の使い方が決め手である。 ところで、おねきゅーについていた まな板が、使いようがない上にデカくてジャマなのにも 関わらずおもしろいという特性を持っていて困る。 絆箱の箱は自然と小物入れの役割を果たしていたが、それも今日で終わりだ。

体用洗剤が切れたので買いに行ったのだが、いつもの奴がなかった。 いかにもな匂いのついた合成洗剤はどうも体がかゆくなって苦手なので、 多少値がはっても健康グッズ系の液状せっけんを買っているのだ。 実際実家に帰るといつも頭がかゆくなる。 ともかくもないと体が洗えないので 仕方なく別の無添加を謌っているせっけんシャンプーを買ってきたのだが、 困ったことにリンス効果付きだった。体中がヌルヌルして気持ちが悪い。 私には髪用と体用の洗剤を分ける習慣がないのである。 そもそもシャンプーって何語よ。

2003年8月21日

現実逃避に算術圧縮のアレンジの一つであるrange encoderの勉強をしてみたりした。 驚くほど賢い。かなり簡単に書けるにも関わらず 速度も圧縮率も相当に優れている。そのうち書くこともあるかもしれない。 しかし、圧縮で問題になるのはエントロピー圧縮よりもむしろその前 に行うフィルタ処理の方であるような気がしてきた。 データの性質によって有効な方法がガラリと変わるのでよほどむつかしい。

ちょっとした縁があってスターシップ・トゥルーパーズの映画を見た。 一応表面上は原作と同じテーマを表現しているのだが、 やりすぎ感の漂う脚本と、 どことなく安っぽさを漂わせる画面や演出のおかげで まるで正反対の効果を醸し出している。 原作において重要な意味を持っていたシーンや 構成を根こそぎ切り捨てて単純明解に再構成した結果、 原作が一応持っていた説得力が完全に失われてバカ映画と化してしまっている。 これほど華麗なアレンジができるのかと驚くばかりだ。 パワードスーツが出てこないのもこのコンセプトから言えば当然の要請だろう。 かえってあんなものがあってはノイズになる。 そんなわけでおもろかった。

脳がピアノにならない。脳内にあるのは旋律だけで、 和音がないのだ。3つ以上の音を同時に鳴らせない。 20年以上にわたってヴァイオリン的なフォーマットに縛られてきたので 無理もないが、ここらで幅を広げねばピアノをやる意味がない。 本当はショパンがやりたいのだが、到底手が届かない。 ベートーベンやモーツァルトあたりで簡単な曲があると良いのだが。

なお、バッハの音楽はたいがい複数の旋律の相互作用で成り立っており、 つまるところ二人や三人でヴァイオリンを弾いているようなものである。 和音がどうこうという感じはない。 そのためにどうしても地味で玄人向けな音楽と思われてしまうし、 現代的な音楽とは少々構造が違いすぎている。 しかしせっかくピアノを弾くのだから、もっとわかりやすくゴージャスな 曲を弾いてみたいのだ。中でもショパンは私にとってゴージャスな 音楽の代表格になっている。たぶん小学生の頃に発表会で 年上の子が弾いていた軍隊ポロネーズがその原体験なのだろう。 自分がやっているものと同種のものとは到底思えなかった。 まさに音の洪水である。 ピアノ曲をまともに聞いたのはもしかしたらそれが初めてだったかもしれない。 思えば音楽を聴くということをまるでしないガキだった。 そしてそれは今でもあまり変わっていない。 集中せずに聴く環境としての音楽にはあまり価値を感じないし、 集中して聴ける時間などたかが知れている。 たまに音楽を聴きながら仕事をしてみようと思い立って 何日か続けるのだが、結局すぐやめてしまう。

軍隊ポロネーズのmidiを拾ってきて聞いてみた。やっぱりしびれる。 ゴージャスだ。こんなもんを10歳やそこらのガキが弾いていたのか。 ところで、このmidiの演奏は下手糞だ。 ショパンの曲は音量のバランスをちょっと間違えば即不協和音になるような 危うい和音が目白押しなのだが、そのちょっと間違ったいい例がこれである。

そういやビッグオーのドロシーのピアノはこんなだった。

予想外な事態が発生して自分でもおもしろいくらい動揺している。 しかしさすがにフロ入ってメシ食ったら少し落ちついて考えられるようになった。 少し考えれば予想できて当然の事態なのだが、 何をどう考えても自分にできる限界は決まっているので そのことだけはしっかりと伝えねばならない。

で、ノートを買ったためにマシンが余った。 というか、余らせるためにちょっと性能の高いやつを買ったのだ。 後でキーボードとマウスを買ってきたら現行windows機を完全に置き換えられる。 しかし今回ちょっとしたお手伝いで動作確認をしたときに実感したのだが、 PCソフトを作る時にはこういう余った機械は必須だ。 いろんな機械で動かないといけないというのは思ったよりも大変なことである。 ビデオチップのテクスチャの限界サイズで引っかかって動かない、 なんてのは実際にブチ当たってみなければ到底わかるものではないだろう。 もし自分でゲームを作るなどということになれば予備機はあった方がいい気がする。 もっともノートPCは一番トラブルに敏感な気がするので、 これで動けばたいてい動くような気もしないでもない。 身内でものすごく欲しい人がいたら考えるかも (AthlonXP1700,SiS740,DDR266-128MB,2.5inchHDD-20GB,16xDVD, mixroATX箱,200W静音電源)。

2003年8月20日

少しづつ左右で独立した流れを作るということがわかってきた。 ピアノの話だ。しかしそれを思うとなお一層ハノンが足りない。

数学が苦手なプログラマは多いから プログラミング能力と数学能力はそれほど関係ない、というようなことを書いて いたサイトがあったが、あれはたぶん謙遜もしくはイヤミだ。 プログラミングをする人は 自分の数学能力に不足を感じることが多いというだけのことだろう。 プログラミングができる以上数学能力が人並み以下ということはたぶんないが、 人並み程度ではプログラミングをするには到底足りない。

いくら速度が問題にならない用途であっても、 物の数が10000を超えると2乗オーダーは論外になる。 1000で済むかどうかが目安になるようだ。

2003年8月19日

久しぶりにまともに働いた気がする。と言っても8時に帰ってきているのだが。

D.C.7話。驚いた。中身はないが、ちゃんと話が終わってる。 今まで15分で叩き切ったかのような状態だったのが嘘のようだ。 あとハピレスの7話。さつきママが不自然なのが気になるが、 まあいつも通り普通に見られる。それとグリーングリーンの何話だか。 3バカのうっとうしさが極められている。これ以上嫌なものは考えられない。 絵も素人レベルだった。 まごうことなきクソアニメだが、何事もなく終わるまったりアニメとは 全く逆のベクトルを持つクソアニメなので新鮮ではある。

現状おねツイが一番楽しみなアニメになっている。 テンポを崩すお色気シーンにムカツクと人が言っていたが、 実は言われるまで気がつかなかった。なるほど確かにそうだ。 なんだかんだ言っておねティも好きである。 あとキングゲイナーをぼちぼち見ている。いちいち富野でおかしい。 あと何かサブングルっぽい。 そういえばのじりんがいらん萌えテイストがじゃまくさいと言っていた気がするが、 私もそう思う。妙に外している気がしてならない。

ここのところゲーム本体とかけ離れたものばかり 作っているので気分が乗らない。 いや、こういう基礎的な作業はあるゲームに特有の作業よりも よほど好きで望むところではあるのだが、 問題は他人から見て成果が見えにくいということである。 ただでも地味で目立たない仕事なのに 私の知らない数学やアルゴリズムを大量に投入せねばならないので 勉強やらなにやらで時間がかかり、余計に成果が見えにくい。 先月だったか業務日誌を上司に提出した時に「これだけ?」 と言われてえらくショックだったが、たぶん今月もそうなるだろう。

算術圧縮を理解した。理解したと思う。あまりにかっこいい。 ハフマンを上回るかっこよさだ。 あとブロックソートとかPPMとかも大枠は理解できた。 頭のいい人はいるものである。いずれ使うこともあるかもしれない。 それにしても圧縮関連のサイトを見ているとどこも特許についてなにかしら 書いてあって嫌になる。 技術は隠しておいてこそ利益になるのだが、 皆がそうすると全体的な発展は妨げられてしまう。 そこで公開してしまってもその技術で利益を得られるように 制度を作ってやる、というのが特許であるらしい。 確かにもっともかもしれないとは思うが、 どうせ現実はそんな理念で動いているわけではないので、もっともかどうかなど どうでも良いことだ。できるだけ関わらないようにしよう。

ミューズリ用に牛乳1リットルを買ったが、会社の冷蔵庫が一杯で保存できなかった。 やむを得ないので全部飲んでしまい、当然のように下痢。

合間に吸血鬼ドラキュラを読んでいる。 てっきりどっか城に閉じこめられてがんばって倒して脱出する話かと 思っていたのだが、だいぶ違う。ドラキュラがはるばるイギリスにやってきて 夜な夜な女を襲うのだ。まだ4分の1くらいで筋もさっぱりわからないが、 なにやらおもしろい。これを読んでおけば吸血鬼ネタ がわからなくて淋しい思いをすることもないだろう。

2003年8月18日

一日中仕事と関係ないものが気になってそのことばかり考えてた。

例のはてなダイアリーのキーワード機能は自分で切れるらしい。 文句言うならきちんとマニュアルを読んでから言えと怒っている人がいて、 それももっともかと思った。 使うかどうかを決めるための判断材料としてそういうことを持ち出すならば マニュアルくらい読んで然るべきだろうし、 読者として気に食わないだけであれば別に何の害を蒙ったわけでもないのだから 文句を言うに値しない。

なお、あのキーワードを私が気に食わない一番の理由は CSSも解釈できないテキストブラウザではキーワードと 筆者が意図して入れた「本物のリンク」と区別がつかないからである。 「ヘルプを読め」とあって「ヘルプ」がリンクになっている場合、 その文脈におけるヘルプへのリンクであることを想像してしまうが、 実際に飛んでみたらただ単に一般的なヘルプという言葉の説明だったりして困る。 IEを使わない私が悪いのだが。

2003年8月17日

帰ってきました。なんか勢いでノートパソコン買ってしまいました。 休み中のことは思い出しながらなんか書くでしょう。

せっかくなので夏祭りへ行くことにした。電話を忘れんようにせんとな。 こんな時でなければ全く使わないのだからなおさら忘れてはならない。

帰りの電車でノートパソコン出してPHSつないで「うおっ、モバイラー!」 などという気分になって悦に浸っていたのだが、ものの2、3分で吐き気を催してダウン。 乗り物の中で何かを凝視すれば即ゲロ、という自分の性質はよく知っていたはずだが、 まさかこれほどとは思わなかった。むしろ昔よりひどくなっているような気がする。

買ったのはシャープのPC-MV1-5CA。12インチ液晶で1.3GHzのPentium-M。 DVDドライブ付き。松下の軽い奴に比べるとだいぶ重いが、 CPUの速度に不安があるものは避けるというコンセプトだったのでやむを得ない。 ノートパソコンは初めてに等しいので使い勝手がどうかはわからない。 しかしちゃんとDivXも再生できる速度なので失敗ではないだろう。 Pentium4の2GHzに匹敵する速度という話なので当分不安はあるまい。 使っていると底がかなり熱くなるのが少々不安ではあるが、 今時の機械はこんなもんなのかもしれん。

そういやおばさんちで生ピアノを弾いた。感動的に違った。 最初の感想は「うるせえ」。要するに左右で音量の調節ができてないので まるで音楽になっていないのである。電子ピアノを小さめの音でチョコマカ弾いて いるとそのへんがわからない。生ピアノに触れる機会をできるだけ持ちたいものだが、 こればかりはどうにもまるまい。 もちろん生ヴァイオリンも全力で弾きまくってきたが、やはりニセモノとは違う。 電子ヴァイオリンは弾いた瞬間に音が出るが、 生ヴァイオリンは絃に力を与えてから実際に音が鳴るまでけっこう時間がかかる。 絃が振動を始めてから本体が共鳴振動を起こすまでの時間は無視できるものではない。 自分の出している音をしっかり聞くことが必要とされる。 やはり定期的に生ヴァイオリンに触れて修正しないとマズいことになるようだ。 それにしてもさすがに生ヴァイオリンは鳴る。恐しく鳴る。 ずっとショボい電子ヴァイオリンで弾いていたせいもあるが、 明らかにボーイング技術の改良の成果が出ていた。 上達を実感する瞬間はいつも最高である。 最優先課題は根本付近での移絃。特にアップからダウンへ転じる時は弓の 制御が困難になる。次に正確で高速な左手の操作。 昔より音程は良くなったが、単純な速度や右手との同期は 明らかに昔よりも衰えている。今一度中学生くらいの時期の速度を取り戻さねば ならない。

コミケ。とりあえず接触可能な知り合いに挨拶した後 ダラダラと歩き回る。 結局ほとんど買わず、ジャンルの分布や傾向を眺めていただけ。 企業ブースがギャルゲと声優に占領されていたのが衝撃的だった。 それにしてももうダメらしい。あの世界との距離があまりに離れすぎた。 終わった後アニ同会員とダベっていた方がメインだったように思う。

休み中、じいちゃんに何度も結婚しろと言われた。 もう87にもなるので焦りがあるのだろう。ひまごが見たいという望みは 一般には贅沢なものだが、ここまできたらせっかくだから、という気持ちは わからなくもない。そんなこんなで、 じいちゃんに限らず周囲から結婚圧力がじわじわとかかってきているのが 最近気になってきた。とは言え、 正直やっぱりどうでもいいことのように思えてしまうので仕方ない。

「クビキリサイクル」の後ろの「リサイクル」の部分を間違って認識している はてなダイアリーのキーワードシステムは役立たずだと思う、 「サイコロジカル」の「サイコロ」も認識していた。 誰かが勝手につけた註釈が自分の文章にも及ぶというのは 邪魔以外の何者でもないように思う。 実は日記をその手のサービスに移してみたらどうだろうなどと思っていたのだが、 少なくともはてなは除外。

2003年8月9日

圧縮について考えていた。しかし、もし本格的に必要になれば誰かが作ったものを ありがたく用いるので自力で作る必要などない。やってみたいだけ。

なお、自分でバイナリのフォーマットを決める場合は 中身がどんなものかを知っているのだから できるだけその性質を利用して元の量が減るように フォーマットを設計するところが一番重要と思われる。 例えば中身が立体の頂点座標だとするならば、 32bitの浮動小数点が必要なほどデカい、あるいは精密な立体は滅多にない。 人サイズがうろうろするゲームだとすれば、 最小単位は1cmくらいで事足りる。そして1kmとかの巨大な物体はまずない。 とすると、16bit固定小数点で足りることになっていきなり半分になる。 さらにこうやってできた頂点をソートして隣の頂点との差分に変換してやると たいがいが小さな値になってハフマン等の格好の餌食となる。

などと考えても現状では仕事に役立つわけではない。 それくらいのことはライブラリの人がもっと巧妙にやっているだろう。 将来ライブラリの人になるかもしれないのだから勉強しておいて損はないが。

PHSの電池がまた切れている。おかしい。もっと放置してても大丈夫な 機械だったはずだが。リュックに入れっぱなしでここ2週間くらいは 見てもいなかった。何のために買って金を払っているのかさっぱりわからない。 やはりノートPCでも買ってモバイルとか言ってみないとダメか。

このまま実家帰るかも。その場合15くらいまで更新されません。 連絡はPHS、PHSメール、通常メールのいずれかで。 実家にいるうちはWEBも見ますが、ばあちゃんちに移ると それも使えなくなります。

やはりノートが欲しくなってきた。WEBが見られて文章を書ける奴。 しかしこのWEBが見られて、というのが曲者なのだ。 AirH"なPHSを使うとすればUSBが必要であり、この条件が厳しい。 調べてみたら4万くらいらしい。それでP2-300とかになる。 4万は微妙すぎる値だ。1万ならおもちゃだが、4万はおもちゃではない。 しかしだったらいっそ新品買うよとブチ切れるほどには高くない。 ところが、私にとって金の価値なんてのは大したものではないので、 一旦勢いで買ってしまえば大して後悔しないのはわかりきっている。 そうすると中途半端な中古よりは新品の方が気分がいいのは間違いない。 あまりにむつかしすぎる選択だ。そしてこういう時は保留されてしまうのである。

2003年8月8日

フランケンシュタン終わり。 明らかにフランケンシュタイン(作った人)がアホだ。 口は達者だが、逃げてばかりである。 怪物を追っている時すら心は逃げている。 怪物の害意を知ってからも逃げてばかりで被害を食い止めようとしない。 そもそも最初からしてひどいもので、完成した瞬間にビビって逃げ出してしまい、 数ヶ月単位で放置してしまうのである。 本当に弱い男だ。 しかし、「好きだから」というだけの理由で研究を やっていてたまたま致命的なものを開発してしまった人間がいたとすれば、 確かにこんなものだろう。影響まで考えて研究をしろなどと言うのは 土台無理な話なのである。それに、そんな致命的な影響が出るような 研究が自分にできるなどと考えるおめでたい研究者はそうはいないだろう。 悲しいかな私にも関係のないことだ。

ところで、有名な割に読んだ人は相当少ないらしい。 同人ばかり流行って実はみんな原作を読んでない、というような状況である。 作者が生きていた時にすでにそういう徴候があったそうで、 バンバン演劇化されストーリーもキャラも見る見るうちに別物になっていったという。 ちなみに、雷雨の夜電気火花と共に 怪物が誕生するというシーンは原作にはない。 もっとも、私は映画も見たことはないのだが。

ハフマン符号に大層感動した。 良く出てくるパターンに短い別名をつけて圧縮する方法なのだが、 出てくる頻度に応じて自動でいい感じに別名をつけてくれるのがすごい。 もっとすごいと思ったのは算術圧縮だが、 こっちはまだよくわかっていないので感動するわけには行かないし、 どうも特許が激しすぎて使いようがないらしい。 特許は嫌いだ。

2003年8月7日

フランケンシュタイン中。 やっと怪物が出てきた。しかしまるで怪物くさくない。 ビビりまくる主人公相手に 「いいから話を聞け。ここじゃ寒かろうから山小屋まで来い。」 みたいな感じのことを言う。シブいオッサンキャラとしか思えない貫禄である。 その容姿もあのネジとか刺さってて縫い目があるようなイメージとは だいぶ違いそうだ。そもそもフランケンシュタインは怪物の名前ではなくて それを作った主人公の苗字なのである。 そんな話を聞いたことはあったが確かだった。 それでは「ドラえもん」の題名が「のび太」になるようなものではないのか などと思ったが、考えてみれば「Dr.スランプ」の例もあるので納得はできる。 副題に「現代のプロメテウス」とかついているので確かにそんなもんだろう。

プロメテウスについてはこんなところ。 実は知らなかった。それにしてもギリシャ神話はちゃんとは知らないので、 何かしらの古典を一回読んでおかねばならないなとは思う。 それは古事記などにも言えることなのだが。

朱、終わり。3時までに終わったから大丈夫だ。 演出やら雰囲気やら何やらでなんとなく 大層おもしろかったような気がしているのだが、 ちょっと頭を使うといろいろわけがわからない。というか、おかしい。 というかルタさん。 あんた今、あっさり銀糸使ったやろ。その後でそんないいシーンされても 困るんですがどうよ。その他にも数えきれないほど何かがおかしい。 しかし思い出そうとしなければ思い出せないのでまあ良しとしよう。 なんだかんだ言って見せ方がうまかったのかなんなのかやけに盛り上がった。 音楽良すぎる。どこかで聞いたことがある色の音楽なのだが思い出せん。 昔ゲームだかアニメだかでこういう音楽を聞いたような気がしてならない。

ツッコミ事項のうち最大のものだけは敢えて言っておこう。 2章と3章のキャラの扱いひどすぎ。2章キャラは元々 比較的どうでも良いので許すが、3章キャラはいくらなんでもひどすぎるだろう。 終わりで一人殺し、後で出てきたかと思えば端役もいいところで、 しかもあっという間に始末され、それも凄まじい犬死にっぷり。 思えば3章の最後で死んだその死因も「え、それで死ぬの」という感じに ひどい死に方だった。あの番人は三章キャラを始末するためだけに 存在していたのではないだろうか。自分で闘ってねえし。 つうか、引き返そうとしてんのに殺すなよおまえ。 どう考えても始末するために無理矢理配置されただけとしか思えない。

全体になんとなく良く出来ていて盛り上がるし ところどころかなり来るものがあるのだが、しかしどこか頭の良さが足りない。 終わって考えてみるとダマされていた感が拭えないのである。 例のペンダントがそう使われることは予想していたが、 ちょっと都合良すぎだろとか、見た瞬間にそれはないだろとか、 話の核心に関わるところでやりすぎ感が漂っている。 あれはどうだっけ、これはどうだっけと考えれば考えるほど 湧いてくるのでやめておいた方がいいかもしれない。

ラストもわからない。別にそのまま生きられるだろおまえら。 いや私はあの後やらなかったと踏んでいるのだが、それはそれだ。 記憶を消すという選択肢と消さないという選択肢が少なくとも 同等の説得力を持つということを表現したくてああいうシーン を作り、さらには結末を見せずに幕を引いたのだろうから、 消すという選択には意味はあるはずなのである。 しかし、私にはその意味がわからない。 そもそも一章の最後でああせざるを得なかった理由からして ピンと来ないのである。シーンとしては美しいがいまいち動機がわからない。 とにかく記憶を消されることを望む理由をついに納得させてもらえなかった。 ちゃんと読めていないせいなのかもしれないが、 もはやそれを知る術はない。

エピローグについて。銀色世界とリンクしているのはわかったが、 じゃあ朱の舞台はいつのどこなのよという話になる。 江戸時代より後の地球にこんな世界はねえ。 銀色が異世界物だったような記憶はないのだが、もしかして異世界だっただろうか。 いや、異世界か。なんかズレてた気がするし。 なお、いまいち銀色は覚えていないので話そのものはよくわからない。 そしてやっぱりもう銀糸使ってしまって助けた後で、もう一回使えば助かるのに 使わないで死にゆく人を見守って悲しいシーン、というのに 説得力を感じない。ルタの時と同じだ。 自力でがんばらないで願った願いに価値があるか、 という論理を主題としているのはいいとしても、 人が目の前で死んでってそれを使えば確実に助かるという時に 持ち出せるような論理だろうか。まして、今実際にその論理に反して 自分で使ってしまった直後なのである。 ここで「いいから使えよ」というツッコミを入れるのは許されないのか。 いや確かに使ったら何もかもブチ壊しになるのだが、しかしそうは言っても 納得できない。 素人目には一回使ったらゲージが溜まるまで使えないくらいの 設定だった方がいろいろと便利だったのではないかと思える。

おまけ。バカ笑いしてた。ノリノリのバカ文。進藤さんの声優が最高。 えらく楽しませて頂いた。 ドラクエネタとポートピアだかオホーツクだかわからんそれ系のネタも 銀色だかで最初に見た時は痛かったがもう慣れた。おもろい。 今ならジョジョがもしあっても同様に楽しめたかもしれん。 にしても、何故みずいろ。朱のおまけシナリオなのに朱キャラが 見た限り一人しかいない。それもドラクエの敵役。 どういうことよ。確かに終わった直後で朱キャラでこれをやられたら 余韻も何もあったものではないのだが、 それにしたってみずいろをやってない人間を完全に無視するのはどうか。 それを言ったら銀色をやってない人の方が辛いか。

総合的に微妙。見せ方として優れていたのは確かだと思う。 おまけを除けば売り物っぽさは相当なものだ。 構成もきちんとしていて、それぞれのシーンが全体のストーリーの 中で位置づけられている気がする。 細かい描写も二章以外はそこそこしっかりしている。 だからやってる途中はかなり楽しんでいた。それは前の日記からも伺える。 しかし、話がたてこんでくると途端に納得できないことが噴出してくる。 シナリオを大中小の階層に分けると、大と小は悪くないが中がイマイチ、という感じ。

そういえば後ろの方のアラミスがしゃべってなかったのはうちだけなのだろうか。 他の女キャラはしゃべってたのに。謎。

4時になります。ヤバすぎ。明日になったらもう少し落ちついて 思い出しつつ考えられるだろうか。

せっかくなのでこれでもかと継承やらテンプレートやらを 使ってみてわかったのだが、やはりやりすぎはいけない。 しかしおかげでやりたくなった時に困らない程度には理解できた。

クラスのstaticメンバがつまるところ安全装置つきのグローバル変数なのだ ということがわかって、少し世界が広がった。 近頃勉強しかしていない気がする。

2003年8月6日

朱、三章クライマックス前。二章とはうって変わってまともなシナリオ。 そしてラブラブ。あまりにもいい男な主人公とあまりにもかわいいヒロイン。 萌え文法すぎることを気にしないならば、 今のところこれまでの三章では最強である。 本当は最後まで読んでしまいたいが2時をすぎてヤバいので中断。

ところで、「よかったな」という台詞は好きではない。 やさしさの表現であることはわかるのだが、 ガキをあやしてるようで対等さが感じられない。 こいつに悪意があるわけではないので問題はないはずなのだが、 気になるのは仕方ない。 それにしても、朱をやっていて気づいたということは 朱以前にもこういうセリフを吐く主人公がいたはずなのだが、 一体何なのだろう。昔から引っかかっていたことにやっと気づいたという 感じなのだが。

考えれば考えるほど聞いてる私の方が濁っているだけであるような気がしてきた。

朱、4章まで。 3.5章、4章と引き続いてレインボーマン並みの引き。 そこで終わるか普通。こんな状態で明日まで待てと言うのか。 残酷である。 それにしても、銀色ってのはどういうことだ。 いや、ストーリーが仮につながっていても別にそれはかまわないのだが、 恐ろしいのはまたあのジョジョが待っているのではないかということだ。 今回は銀色とは比較にならんほど話の出来がいい。 3.5章、4章と引き続いて文章に迫力があるし、演出も冴えている。 それだけに、もし感動のクライマックスを迎えた後あんなおまけが待っていたらと 思うと恐くてたまらないのである。ある意味では楽しみなのだが。

2003年8月5日

朱、二章。出来がどうこう言う前に納得行かない。 ターサは何がチュチュのために良いのかを本当に考えていたのだろうか。 いや真剣だったのはわかるのだ。 年単位で放浪し盗みを働く日々が、こうまでに思い詰めるほどの 負い目を育んだのはわからないでもない。 しかし勝手を承知で言うが、彼はあまりに独り善がりすぎた。 本気でチュチュのことを想ってはいたのだろうが、 何がチュチュのためなのかを本当に考えることはできなかったのだろう。 なお、話そのもの以外も一章に比べるといまひとつである。 全体に盛り上がらない。何よりも説得力がない。 「それおかしいだろ!」と激しくつっこめるほどではないが、 「え?そうなん?うーん」という歯切れの悪い疑問が何度となく湧いてきて 気分が乗らなかった。例えば盗みに入るシーンなどは もっと緊張感が欲しかったと思う。 まともな労働もせずに年単位で旅を続けているのだから、 そこそこには盗みを成功させているのだろう。 であれば、せめてもう少しだけ手練れ感が欲しい。 ハナっから萌え丸出しで失敗されると辛いものがある。 見つかったら走って逃げればオーケー、というのはあまりにも杜撰だ。 そういえばオッサンが殺されるシーンなどもかなり疑問である。 砂漠の中のどこで行き倒れたかを正確にわかるのもおかしければ、 そんな所でバッタリ会う偶然もおかしい。 いや、本当はそんなことがどうでもいいことはわかってはいるのだ。 しかしそういうことに関して盲目にさせるだけの魅力が見つからないので 細かいところにばかり目が行ってしまうのである。

クビキリサイクル。かなり楽しかった。 推理小説の経験は浅いのでこれが推理小説としてどうなのかは よくわからないが、そんなことはどうでもいい。 後から考えてみればあれもこれもヒントだったことがわかるのだが、 読んでる最中はダマされっぱなしである。 ダマされたと気づいた時の敗北感が自分でも驚くくらい気持ち良かった。 ところで主人公はあきらめに塗りこめられたちょっと女々しい奴なのだが、 こいつの思考には妙な迫力が感じられる。 次から次へと周りの人間がそれを指摘していく様は その軽快で今風な文体に似ず結構ハードなものだったのではないだろうか。

にしても、なんかギャルゲーくさいなこれ。 ヒロインの髪の毛の色とかどういう意味があるんだろう。階段登れない病とか。 シリーズになってるなら他のも読まねば。

どんどん潜在的積み本が増えていく。死ぬまでゼロにはならんのだろう。 もっともおそらく今が読書の季節だというだけのことであって、 しばらくすれば自然に距離を置きたくなることと思う。 きっと今は入力の季節なのだ。次に来るべき出力の季節が 楽しい季節になるといいが。

2003年8月4日

ピアノがうまくなってる。ハノンを左手だけで弾いたら 音が重ならなくなってた。そんな些細なことだが感動である。 あとトリルがちょっと鋭くなってる。 インベンションの5番を弾いてて気づいた。 どちらも指が独立し出した証拠だ。一日15曲を一回づつ弾くだけという 実にやる気ない練習でもこれくらいには進歩する。 しかも実のところ週末はギャルゲーやってるうちに力尽きたりしてて 平均したら週5.5回くらいやってない。それでもこれだ。 ハノンはブルワーカーとかアブフレックスと通じるものがある。 日ペンの美子ちゃんみたいな漫画のネタがハノンになってる奴が浮かんで ちょっとおもしろかった。

たぶんたいがいの肉体反射系の 単純スキルは毎日数分やるだけでも 目覚ましい成果を上げるものなのだと思う。 というよりも、数分というのは思っているよりも長い時間なのだと言った方がいい。 しかし、いかにちょっとと言っても毎日続けるのは難しいし、 ましてストレッチに筋トレにピアノにヴァイオリンに太極拳と モノが複数になってくるとさすがに手に負えない。 ピアノ以外はかなりランダム状態になっている。 だいたいその時旬のもの以外はおろそかになるわけだが、 それではいつになっても総合的に強力な人間にはなれん。ここらで気合いを入れ直す としよう。

日記は私にとってセーブロードのシステムだ。 これをもっと有効活用するためのきっかけとして フッサールを使ってみるのはいい考えであるように思える。 思えばメモを取ることなしに読めないような本を読むことは今までの私には 不可能だった。だからフッサールも頓挫したままだったのである。 私の今の読み方は例えるならばあのだんだん鮮明になってくるJPGファイル みたいなもので、とりあえずわからないことは飛ばして 全体を一息に読んでしまい、もし情報量が満足するのに足りなければ もう一度読む、という手続きを踏む。 そして二周目に入ることは滅多にない。 実際趣味の読書に関してはここ数年一度もなかった。 ルソーやらキルケゴールやらは内容はわからなくても作者の気持ちは なんとなくわかるわけで私はそれで十分だったわけだが、 しかしフッサールの場合は内容がわからないと満足できない類の本なので そういういいかげんなことでは話が先に進まないのである。

考えてみれば感想を書く時でも不確かな情報を放置したまま 記憶の中のことだけで書いている。 事実の正確さは私にとっては二の次なのだが、 過去の自分の心情すらが情報としての事実にすぎないとすれば、 結局のところ私は今書いている時点での自分だけを相手にしている ということになる。それでは作品に触れているまさにその時の私 というものを汲んでいないことになるわけで、さすがに感想としても問題だ。 そしてやはり、感想は感想で終わるべきではない。 そこから何かを取り出さなくては意味がない。 そのためにも少しは真面目に活字を読む訓練をしておきたいところだ。 誰誰は何でこう言っているが云々、みたいなのが連発する文章を 私はずっと不信感と憧れが混ざったよくわからない気持ちで 眺めてきたわけだが、そういう文章を書く人に近づいてみなければ その気持ちはずっとつっかえたままになってしまう。

自分で努力しなければ意味がないのは、 そうしなければ身につかず、 身についていないことは使えないからである。 では、自分で努力しなくても身についた状態になれる方法があったとしたら 努力は不要になるだろうか。努力をすることが美とされなくなるのだろうか。 ギガビットで通信できるマルチはもしかしたら 他人に教わるだけで自転車に乗れるようになるかもしれない。 映画本体を身なくても聞いただけで感動できるかもしれない。 いや、というよりも、他人に話を聞くということの情報量が 映画本体の情報量より大きくなったとしたら、 それは一体どういうことになるだろうか、というべきか。 寝る寸前の頭なので自分でもよくわからない。 ただ言えるのは、そういうのは実際に試してみるのが一番だということだ。 やはり和樹は作られねばならない。

11から15まで休みます。たぶんコミケには行くでしょう。最低でも3日目は。 そういうわけなので、9から17までヒマヒマ星人になる予定。

フランケンシュタインとはなかなか確率の低い偶然だ。 ちょうどちょっと前にbook offで100円で買ってきて今積んである。 田舎に行っている間は読書くらいしかやることがないので その間に読んでしまうことだろう。

クビキリサイクル中。ヒロインを見ているとすずうたを強烈に思い出す。 それはともかく、これはかなり変だ。

2003年8月3日

偶然見つけた 職人さんが書いているヴァイオリンのQ&A。 本気でありがたい。即ブックマーク。

上のサイトを読んで 今までいかに楽器に対して無頓着だったかを思い知った。 まともに作られたものは、まともに扱えば100年保つのだ。 こいつを孫に渡そうなどと思うなら今から豪快に悔い改めねばならない。 なにせこいつは高級品ではないにしても断じて安物ではない。 ガキンチョが習い事レベルで使うにしては過ぎた代物だ。 私が死ぬまで現役でいてもらいたいし、 であるならばそうできるように扱うべきだろう。

お茶の水で用事を済ませた後のことだ、東京で乗り換えて 帰ろうと思っていたら、何故かアナウンスが「秋葉原」。逆だ。 今日は秋葉原などにはまるで用事はなかったのだが、 しかし着いてしまったものは仕方ないので降りてうろうろした。 目についたクビキリサイクルを買って帰る。

そういえば本を買ったとらのあなで変なジュースをもらった。 虎缶。中身はしょっぱめのポカリ。この店は一体何を考えているのか。

水滸伝中。毎回見事なところで「以下次号」。 なるほどこれは娯楽だ。いろんな境遇の奴が一人また一人と集まってくる。 かなりおもろくなりそうな予感。智深ダメすぎだ。

朱、一章。すげえ良くできてる。目新しいものは何もないが、 売り物度の高さは相当なものだ。演出と音楽に負けた。 似たシーンを何度か繰り返すことで状況の変化を 鮮明にしたりと、構成にも工夫が見られる。 モノ自体は10年くらい前に流行ったファンタジー系丸出しだが、 10年経てば時効だろうという気もしてさほど気にはならない。 風の大陸とか雷の娘シェクティとかを思い出した。 むしろ気になるのは、大作風味の演出や音楽、 それに王道まっしぐらのストーリーという雰囲気の中にひときわ浮いた 萌えキャラフォーマットである。 やはりこれだけやっておいてキャラが無理に萌えキャラというのは 少々引っかかる。しかし確かに今作ればこうなるだろうという気はするので 納得できなくはないし、 重厚な雰囲気に無理に流行りの美少女を混ぜてみたりするのは 今に始まったことではない。 好みではないが仕方ないだろう。 あと残念なのは、デザイン的に新しいものが感じられないことだろうか。 せめて服などの世界観に関わるデザインには新しいものが欲しかった。 シナリオの方は一応いろいろと考えてショボくならないように配慮をしている ようだが、デザインの方にそれが感じられない。 ロードス島戦記のデザインよりもなお古臭く感じる。 もっともこれも萌えキャラであることによる要請と考えられなくもない。

話だけ抽出してみたらものすごくありそうな感じだった。 あらすじだけ抜き出すというのはそれこそ作品の魂を置き去りにする 行為なのだが、しかしそれでもあらすじの段階で何か新鮮味が感じられるに 越したことはない。

ところで、ぶっちゃけどうだったのかと言えば、これは当たりだ。 主人公達二人の心理描写には説得力があり、 ストーリーともよくなじんでいる。 やはり構成がいいのだろう。 最初から最後まで見事に気分を操作されていた。 主人公の度を越した無愛想っぷりにずっとイライラさせられ、 そしてそれが見事に解消された時には状況は絶望的になり、 最後には愛ゆえにさらなる悲しみの種がまかれ、 どうなるのかわからないまま幕が閉じる。 こうなっては二章を読まないわけには行かないだろう。 みずいろはああなのでともかくとして銀色と比べるならば 驚くべき進歩である。

2003年8月2日

りあねえ、及びおまけもどきとおまけを終了してコンプリート。 何をどう言ったらいいかわからんが、いろいろある複雑な思いを 断ち切って一言で言うならば、ダメだこれ、ということになるだろう。 なんだかんだ面白がっていたのだが、今終わってから考えてみると 残念なことが山と浮かんで来る。

以降ネタバラすかもしれんので注意せよ。しないかもしれないが、 これだけ気分が乗っているということはたぶんするだろう。

何が悪かったのだろうか。たぶんネタ臭すぎるんだろう。 キャラがバカの犠牲にされている。 構成としてキャラの内面が語られるのが後半取ってつけたようなシリアスモード においてのみであり、普段バカをやりながらもにじみ出てくるようなことが まるでない。少なくとも私は感じない。 受け取る私の目が「あーすずねえを極端にしてるだけかー」 という先入観で濁っているせいもあるだろうが、 何をどう考えても「すずねえを極端にしてたくさん並べたら変でおもろかろ」、 という狙いで書かれているようにしか見えないのである。 すずねえには甘えたいが、こいつらは願い下げだ。 ギャルゲーフォーマット準拠の姉メカに用はない。 こやつらがそれなりに辛い思いをしていろいろあって こうなっているという話の部分が日常バカをやっている姿と あまりにかけ離れているのである。

しかしおそらくこれはそういう狙いのもとに書かれている。 キャラが魅力的でないなどと言ってみたところで、たぶんそれは無駄だ。 この下品さや鬼畜エロ、そして無理矢理すぎる姉描写は 無自覚や事故の産物ではあるまい。 「今回はやりすぎてみよう」 というコンセプトであるとしか思えないのである。 しかしそれだけでは話にならんので とりあえずギャルゲーフォーマットにのっとったシリアス部分を つけて体裁を整えているというだけのことだろう。 むろん、そうは言ってもシリアス部分をそれなりに真面目には書いているだろうし、 実際作者の優しさに対するイメージは伝わってくる。 とにかく笑えないよりは笑えた方がいい、という感覚には美しいものも感じる。 私には落ちこんでいる時に誰かが無理にでも笑わせてくれて なんとなく救われた、なんていうドラマチックな記憶はないのだが、 そういうのはきっとあるのだろうとは思ってしまうのである。 そういうわけで、私もこいつらはなるほど優しいと思う。

特にタケルは優しい。今回のキャラの中で一番まともに描かれているのは 結局のところ奴だ。ドリ子合同シナリオにおいては言うまでもなく、 普段何気なくいりびたってバカをやりながらも随所に配慮が見えるような気がする。 売りであるバカにしても、特にやりすぎないくつかを除けばあまり無理なく 自然にバカであるように思える。 ある意味、こいつばバカ以外の人格制約を受けていないために ストーリーやコンセプトの犠牲になるということが 最小に抑えられているのではなかろうか。 姉共は言うまでもなく姉であることの制約を逃れ得ず、 その制約は作品のコンセプト本体であるがためにこれ以上なく強力だ。 ドリ子やレモンも脇役としての位置という強い制約のために 本来の力を出し切れずにいる。 デビルもストーリーを語るという強力な制約のためにさまざまな不利を負っている。 しかしそうは言ってもタケルはバカという巨大な十字架を背負っており、 そのために普通の意味での萌え属性を剥奪されいるので 萌えキャラとしてどうかと言われると微妙ではある。 そもそもこいつは一体何度「尿」と言えば気が済むのか。

ストーリーが盛り上がらないとまともなことを言わない、 というギャルゲー的構造は嫌いだ。 ストーリーが盛り上がるまでは単なる奇人変人大賞だが、 盛り上がるとそれまでの変人性が消え失せてしまって別人になる。 そういうのは私にとっては一番のガッカリ要素だ。 SNOWやD.C.が好きなのはそういうことがあまりないから ではなかろうか。克明に思い出せるわけでもなくただ今思いついただけだが、 そう言われてみれば音夢は最初からまともなことも言っていたし、 最後までボケていた。さくらは明らかに最初から何かを隠していた。 澄乃は一緒に働くようになって その意外なまでのたくましさに驚いたものだが、 別にそれは話がたてこんできたら急にまともになってトラウマを語りはじめた、 などというものとは全く別で、ただ単に知らなかった面を知っただけのことである。 確かに奴のボケは度を越していたが、その度を越したボケは最後まで変わる ことはなかったのであって、ストーリーの犠牲になったということは なかったように思う。 とらハキャラなどはそもそも奇人変人大賞ではない。 奇人変人なのは設定だけで、話せばまともであることがすぐわかる。 知佳は最初からまともで、真雪に反発した時もまともだった。 そしてどいつもこいつも別に無理してボケキャラを装っているわけではない。 天然ではないかもしれないが、しかし少なくとも身についたボケではある。 私がキャラを好きになるにはそんな感じの条件がいるらしい。 考えてみれば舞は結局わからん奴だった。

ところで、タケルは好きだ。 そしてタケルと話す未空も好きだ。未空はタケルと話す時だけ 無理をしないでいられるように思う。 しかし、ドリ子合同シナリオクライマックスあたりのタケルは エロを主導する役割を負わされたせいか 急におもしろいことを言わなくなってしまって非常に淋しかった。 それに、そもそも元からラブラブだったので、ラブラブになる 過程を楽しむこともできなかった。たしかにここまであけっぴろげ というのもタケルらしい気はするが、ちょっとかわされた気分である。 せめて初々しい頃のタケルを見せろ。 あと小さい頃のななねえの絵を出せ。そんな感じで、全般に絵が足りない。 かなり本気でうまくない絵だが、状況を説明する道具としての役割は 最低限果たさねばならないと思う。

それにしても、3つ終わった後出現するシナリオのいいかげんさは どうにかならなかったのか。おまけのひどさもトップレベルである。 本気でおまけだ。シナリオの人はせっかくおもしろい感性を持っているのだから あとは上手くなればかなりすごいと思う。 構成とかネタの選択とかはある程度までは修行でどうにかなりそうな気がするのだが、 どうなのだろう。 ともかく無理にファンタジーにしたりSFにしたりして ショボくするのは悪いクセだと思う。 科学とか魔法とか遺跡とか、そういうものの使用には十分な注意が必要だと 思うのだが、みんな気にしないのだろうか。 取材すんの面倒だしファンタジーにすりゃ好き勝手だろ などと思うのも身に覚えがあるのでわかるのだが、 やっぱりイカンと思う。

そんな感じでとりあえずおねきゅーはおしまい。

前いたチームの先輩がリカヴィネを買った。 説明会会場まで自転車で一緒に走っててそんな話になったりしたのだが、 やっぱり見事にオタクだ。あんなにかっこいいオッサンだと言うのに。 外見と関係なくオタな人はオタなのである。しかし ああやっぱりオタなんだ、と思うような外見の人も多いことを考えると いろいろわからなくなる。さあ私はどうかな。

オレ、バカだ。日記バックアップスクリプトが動いてないことに気づかなかった。 上に月が変わってもCVSにADDしてなかった。というか、ADDを自動化してなかった。 で、7月分の日記に上書きしてもうた。 せっかくの道具がまるで使えてねえ。

googleから30日までめでたく復元しました。 ありがとうgoogle。しかし本当にどうなってんだろ。googleって。 世の中の莫大な文書を全部持ってるわけでもあるまいに。

築地行こう。なんか急に思い立った。料理すると台所が汚れて 同居人に迷惑をかけるので、何もしなくても食えて備蓄可能なものを 買ってこよう。じゃこかたらこくらいしかないんだが。 朝6時ごろ出るとするともう寝られん。

のじりんの電話で起きた。一日成田山とか佐倉城址とかを見て解散。 なんかすげえダラダラ見て回ってた。 たぶんそのへんの写真が のじりんのところに載ると思う。 あの人のおもしろがり方は独特で、むしろおもしろがってるのをおもしろがってた。 一人で歩いても絶対あんなおもしろがり方はできないと思う。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。 ニューロマンサーのようなものすごいものを想像していたが、 意外に読みやすかった。作者の視線がSFそのものには向かっていないからだろう。 あくまで人間性というものを表現するためのお膳立てとしての設定なので 慣れ親しんだ物語的な読み方が通用する。 とは言うものの、その設定はすごい。 放射能に汚染され生物が半ば死に絶えた地球 においてはほとんど生物は残っておらず、 生きた動物を飼うことがこの上ないステータスとされている。 また、動物を愛して世話をするということはアンドロイドにはできない ことであり、人間性の象徴ともされている。 アンドロイドを殺した賞金で山羊を買う主人公、 というのにはなんとも言えないすごさを感じる。 感情移入しない存在がアンドロイドであり、 それができる存在が人間、という構造ははっきりしていてわかりやすい。

ところで、ブレードランナーは見たはずだがこんな話だっただろうか。 主人公がアンドロイドを殺していたのは覚えているが、 宗教やら動物やらの話があったかどうかはまるで覚えていない。 そもそも、アジア系の汚い街プラスサイバー社会という イメージはこの小説には微塵も出てこない。だいたいこれの舞台は 荒廃し切った未来とは言えアメリカだ。 オペラのシーンが出てきたりもする。 イメージ的には「最高のサイバー手術を受けるならチバシティへ行け」 みたいな感じで始まるニューロマンサーの方が元ネタなのだろう。 そんなことをいろんな人から聞いたが、確かに今考えてみるとそう思える。 なんにせよあの映画はもう一度見なければいけない。 むしろあの時原作も読まずに見たのが間違いだった。 あの上映会はほぼ全員寝ていたのを思い出す。

2003年8月1日

りあねえ中。奴の出番が多いのでかなり満足。

私でも知識量としてはそれほどヤバいわけではないような気がしてきた。 しかし下を見て安心しても仕方ない。

会社が新体制だとかで説明会。 なるほどと思うことしきりだったが、 そこまでわかっててなんで今まで放置してたんだろうと思った。 きっとそれが大人の事情という奴なのだろう。 今度の社長はそういう意味では大人ではないので 楽しみにしておくことにする。

そういやドドイチ先輩についに会った。会ってどうというわけでもないのだが、 お互い変わり果てた姿になってしまってさっぱりわからなかった。


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